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正法眼蔵 深信因果 7

「百丈野狐の説話」について道元禅師の注釈は続きます。

仮にどのような境涯で一千の境涯や一万の境涯を分かったとしても、、それらは必ずしも釈尊の教えがわかったということにはならない。しかも、偶々たくさんの境涯を知ったということで自惚れているとするならば、それは憐れむ状態である。

外道(釈尊の教えを信じない人々)の間でも、八万劫という無限に近い長い時間を知ることのできる人もいるが、かりに八万劫という長い時間の内容がわかったとしても、それはまだ釈尊の教えというわけにはいかない。

この「百丈野狐の説話」における野狐が、わずかに五百の境涯を知っていたからと言ってそう大した能力ではない。最近の中国における坐禅をやる人々の間で最も愚かなところはまさに、「不落因果」という言葉が、原因・結果の関係を否定する言葉であって、間違った考え方であるということを知らないということである。

あわれなことではないか。釈尊の説かれた正しい教えというものが十分にいきわたっている中国におり、代々の祖師方が正しく伝承している事態に出あいながら、因果関係を否定する誤った考え方の人々の中に我が身をおくということは。したがって、坐禅の修行をして仏道を勉強していく人々は、何よりもまず急いで、因果関係に関する基本的な理論というものを明瞭に理解すべきである。

「百丈野狐の説話」において百丈禅師が言われた「不昧因果」という基本理論は、原因・結果の関係に関する理解が不明瞭でないという意味である。したがって、この「因果ニ昧カラズ」という言葉には、善い行いを実行すればよい結果が得られる、悪い原因を実行すれば悪い結果が得られるという基本的な考え方が明瞭に示されており、これこそ仏道の世界において真実を得られたたくさんの祖師方の教えそのものである。

一般的に言うならば、釈尊の説かれた因果の法則というものが釈尊の説かれた教えの一つの基本原則であるということが十分にわかっていないうちに、釈尊の教えを説くということを行ってはならない。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
「因縁因果」ですが何か当人にまあいいことが起こればいいんですけれども、悪いことが起こった場合に結局それは因縁因果なんだからしょうがないんだと。そういう場合にそれから逃れるというんでしょうか、それから救うというんでしょうか、そういうものはどうなんでしょうか。

先生
その点では、原因・結果の関係で一つの結果が出た場合に時間の経過というものが救いになるんです。辛抱しておれば何とか助かるというのが原因・結果の理論の裏側です。だから自分が原因を作ったのだから仕方がない、自分の与えられた環境が原因になってこういう結果が生まれたんだから仕方がない。しかし悪いことをせずにジ-ッと辛抱しておるところの環境から抜け出せるなと言うのも因果論の一つの大事な主張です。

だから人生を生きていく上においても、自分が不幸だと思ったならばその不幸を辛抱する、自分が調子がいいなと思うときには「どう変わるかわからない」という警戒心を持つということが大事です。普通の人は中々そういう考え方をしないで、調子がいいと一杯飲んで大暴れするということがあると同時に、不幸な結果があると「もう俺はだめだ」ということで意気阻喪してしまうというふうな生き方がわりあい多いわけです。

けれども因果関係を信じている場合には「現在が悪くても、悪いことさえしなければよくなるな」という確信を持つことが出来るし、「今状態が悪ければ結局自分が作った原因だな」ということを感じて、ジ-ツと我慢をするという生き方につながるわけです。

質問
その場合は良寛和尚が言っておりますように「災難に遭う時は災難に遭うがよろし、死ぬときは死ぬがよろし」と言ったような、ああいう言葉と同じような・・・。

先生
そうですね。ですから良寛和尚の言葉というのはまさにそのことなんです。この世の中はすべて原因・結果の関係だから、悪い結果がでたらジ-ッと我慢しなさいと言うだけのことです。普通はそういう教えは薄情だというふうに受け取るんですよ。「悪いことをしても、なるべくいいことがあるように」という風にたいていの人が願うわけです。

「悪いことをして悪いことがあったんじゃあたり前だ。悪いことをしてもいい結果が出るように」ということを普通の人は願うわけですけど、釈尊はそういう事はないと言われた。悪いことをすれば悪い結果があるし、善いことをすれば善い結果が出ると、こういう事を言われた。

きわめて当たり前のきわめて薄情なご意見だということで、まぁ恨む人は恨むわけですけれども、事実はそうなんですよ。だからそういう関係というものから抜け出すわけにはいかない。そうすると原因結果の関係というものを十分に勉強して、いい結果が出るためにはどう努力したらいいかという人生の工夫になるということが言えると思います。


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「正法眼蔵」は仏道を勉強する上において「なぜ坐禅をやらなければならないか」という事を事細かに疑問の余地のない形で詳細を述べておられる。だから「正法眼蔵」を読んで仏道の理論的な側面を勉強しながら自分自身で坐禅をやるならば、仏道修行においては欠けているところはない。―愚道和夫老師―

プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
70代女性。自営業。自宅で毎日朝晩坐禅をしています。愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」をブログで紹介しています。老師より平成13年「授戒」平成20年「嗣書」    

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