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正法眼蔵 深信因果 6

「百丈野狐の説話」について道元禅師の注釈は続きます。

今日でも中国における僧侶たちがしばしばいう。我々は人間としての身体を受け、しかも釈尊の教えに出会っっていながら、一つの境涯や二つの境涯でさえ分かっていない。ところが「百丈野狐の説話」に出てくる百丈山のかつての住職は野狐になったけれども、五百の境涯をさえ分かっていた。

そこで推測することが出来る。野狐となったのは過去における行いの報いとして野狐の境涯に堕ちたものではなく、あるいは野狐としての身体を得たということではないであろう。 仏道修行をした人間にとってはどんな鎖につながれようと、どんな厳しい関門に出会おうと、それらを乗り越えて行動することが出来る。

この百丈山のかつての住職も、たまたま野狐という別の種類の境涯に自分自ら出向いて、とりあえずその様な境地を経験していたに過ぎないであろう。中国においては偉大な高徳の僧侶と言われる人々の理解の仕方も今述べた様な形で、この世の中に原因・結果の関係がないという見方をしている。

しかしこの考え方は釈尊が説かれた教えを勉強する流派の中に置いておくことはできないのである。ある場合には人間の境涯において、ある場合には狐の境涯において、ある場合にはそれ以外の境涯において、生まれつき過去の生活を知っている能力を持った人々もある。

しかしながら、これらの能力は仏道を本当に理解する上での素因とはならず、悪い行いの結果として生まれたところのものである。この基本的な考え方に関して釈尊はひろく人々に説かれたのであり、このことがわかっていないということは、仏道の学ぶ上において、はなはだ不十分だというふうに言わざるを得ない。
               
         道元禅師の注釈は次回に続きます。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
沢木老師のお話で、「坐禅をやっても何にもならん」というふうによく言われておりますが、その時先生は「私は坐禅はすべてになる」というふうな説明をしたわけです。このことは、まったく正反対の表現をしているわけですが、まあ同じことを言っているんだろうとは思いますけれども、その実際の内容がなかなか理解できないんですが・・・。

先生
その点では、沢木老師のいっておられる事と私の言っている事は全く同じということが言えると思います。沢木老師が「坐禅をやっても何にもならん」と言われたのは何かといいますと、坐禅をすることが目的であって、坐禅をしていることが絶対の価値を持っていると。だから、坐禅をしておる以外に何かが得られるというふうに考える必要はないと、こういう意味で「「坐禅をやっても何にもならん」と。裏返していうならば、坐禅さえしておればそれがすべてなんだと、そういう主張を言っておられるわけです。

ですから私も「坐禅すれば何になりますか」ということについて、「何にでもなる。一切のことに役立つ」ということを言っておるわけでありますが、述べておる内容は沢木老師のおっしゃる事と全く同じです。沢木老師は坐禅をしておる事が絶対の意味があるんだと、こういうふうに主張されたし、私自身も坐禅をしておることが絶対の意味があるんだと。

だから何に役に立つとか、何に役立たないとかという事を考える必要がないという事を、私の場合は「坐禅をすれば何にでもなる」とこう表現しておりますし、沢木老師は「坐禅をしても何にもならない」とこういう表現をされたという事で言葉の内容は全く同じとみていいと思います。

質問
今の件について、先生が何年か前にやはりこの場所である人の発言にお答えになった中でその「ない」ということについては、「英訳したらどういう事になりますか」という質問だったんですね。その時先生が、たしか「something like nothing」というふうにお答えになって、言葉を添えて「何にもないというふうにもとらえる事のできる何か」と、こうお答えになっているんですね。

ですからよく言うように、あるとかないとかと言う問題じゃなくて、沢木老師が「何にもならない」と言ったのは、他の瞑想とかヨガとか看話禅では、目標を持ってやるわけですが、そういうことではなくて、自分が人間であるということのはっきりとした自覚を得るために、人間は人間であることがわかるのは別に不思議じゃないんですけれども、そういうことのためにも、あまり目標とか目的とかを持たないで、ひたすら坐禅をする(只管打坐)ことに対する信頼と言いますか、信仰だと言いますか、そういう事を高めていくための言葉だろうと思うんですが、どうですか。

先生
うん、その通りです。だから我々は坐禅をしている時に、坐禅をしている事実そのものが尊いんですよ。だから、こんな素晴らしいものがあるんだから、あとでなんかの役に立つとかという考え方をしなくていいと、こういう意味です。


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「正法眼蔵」は仏道を勉強する上において「なぜ坐禅をやらなければならないか」という事を事細かに疑問の余地のない形で詳細を述べておられる。だから「正法眼蔵」を読んで仏道の理論的な側面を勉強しながら自分自身で坐禅をやるならば、仏道修行においては欠けているところはない。―愚道和夫老師―

プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
70代女性。自営業。自宅で毎日朝晩坐禅をしています。愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」をブログで紹介しています。老師より平成13年「授戒」平成20年「嗣書」    

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