正法眼蔵 帰依三宝 2
「帰依三宝」の巻、本文に入ります。
「禅苑清規」に言う。
中国の「禅苑清規」という書物百二十問第一という個所に「仏法僧を敬ウヤ否ヤト」と書かれている。この「禅苑清規」の中で「仏法僧を敬ウヤ否ヤト」と書かれているところから考えても、インドにおいても中国においても、仏道修行をして真実を得られた方々が正しく伝承してこられたところは、仏・法・僧を敬う事であるということがはっきりと知れる。
およそ物事に関しては自分自身がすっかり我が身を任せ切るという事が無ければ、本当の意味で敬うという気持ちは生まれてこない。本当の意味で尊敬するという気持ちは生まれてこない。本当の意味で尊敬するという気持ちが生まれてこない場合には、我が身を仏・法・僧に委ねるという事は難しい。
この様に我々が仏・法・僧に自分自身を委ねるという事態がどういう場面で生れて来るかと言うと「感応道効」するとき成就するのである。
※「感応道効について西嶋先生の解説
我々が幸いにして仏道というものがあるという事を知り、仏道を勉強しようという気になったという事は、まさに「感応道効」でありまして、なぜそういう事が起きたかというふうな事を理屈で考えてもなかなか理由が出てこない。ただ不思議にこの世の中には沢山の人々が住んでいるわけでありますが、その中で我々は選ばれて仏道修行をしてみたいという気持ちになったという状態が「感応道効」と呼ばれる事態であります。
―西嶋先生にある人が質問した―
質問
先生は「坐禅は一日に45分やればいい」と言われましたが、「正法眼蔵随聞記」を読んでみると、道元禅師も懐弉禅師も一日中坐禅をやっていたみたいです。そんなにしなければならないものなんでしょうか。
先生
いや、私はそうは思わない。自分の経験において一番大切な事は坐禅は毎日やる事。時間が長い短いよりも大切な事は毎日やる事。だから毎日やれるようになってから長い時間やるのは大変結構だけれども、飛び飛びに長い時間やったんでは、仏道修行は中々達成できないと言う問題があるわけです。
だから私は短い時間でもいいから「毎日やれ」という事をいうわけです。長い時間やると言うのも楽しみな事だし、結構な事ではあるけれども、飛び飛びに長い時間やったんでは坐禅の効果は出てこないと私は思っています。だから、皆さんには毎日やる事をお勧めする訳です。
たまにちょっと長い時間やるのなら、頑張って歯を食いしばってやればやれない事もないけれども、毎日やれって言われるとどうもうまくいかないと言うのが実情だと思います。しかしやっぱり毎日やれる様になって初めて坐禅のよさがわかって来るんですよ。
確かに懐弉禅師にしても「正法眼蔵随聞記」に述べられている通りだし、それから天童如浄禅師にしても、坐蒲を袂の中に入れておいて暇さえあればあっちこっちで坐っておられたと書かれています。まさにその通りであったと思うけれども、それは毎日の坐禅をやれる様になって、それからさらに長い時間やる様になったと、こう言う事だと見て間違いないです。
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「禅苑清規」に言う。
中国の「禅苑清規」という書物百二十問第一という個所に「仏法僧を敬ウヤ否ヤト」と書かれている。この「禅苑清規」の中で「仏法僧を敬ウヤ否ヤト」と書かれているところから考えても、インドにおいても中国においても、仏道修行をして真実を得られた方々が正しく伝承してこられたところは、仏・法・僧を敬う事であるということがはっきりと知れる。
およそ物事に関しては自分自身がすっかり我が身を任せ切るという事が無ければ、本当の意味で敬うという気持ちは生まれてこない。本当の意味で尊敬するという気持ちは生まれてこない。本当の意味で尊敬するという気持ちが生まれてこない場合には、我が身を仏・法・僧に委ねるという事は難しい。
この様に我々が仏・法・僧に自分自身を委ねるという事態がどういう場面で生れて来るかと言うと「感応道効」するとき成就するのである。
※「感応道効について西嶋先生の解説
我々が幸いにして仏道というものがあるという事を知り、仏道を勉強しようという気になったという事は、まさに「感応道効」でありまして、なぜそういう事が起きたかというふうな事を理屈で考えてもなかなか理由が出てこない。ただ不思議にこの世の中には沢山の人々が住んでいるわけでありますが、その中で我々は選ばれて仏道修行をしてみたいという気持ちになったという状態が「感応道効」と呼ばれる事態であります。
―西嶋先生にある人が質問した―
質問
先生は「坐禅は一日に45分やればいい」と言われましたが、「正法眼蔵随聞記」を読んでみると、道元禅師も懐弉禅師も一日中坐禅をやっていたみたいです。そんなにしなければならないものなんでしょうか。
先生
いや、私はそうは思わない。自分の経験において一番大切な事は坐禅は毎日やる事。時間が長い短いよりも大切な事は毎日やる事。だから毎日やれるようになってから長い時間やるのは大変結構だけれども、飛び飛びに長い時間やったんでは、仏道修行は中々達成できないと言う問題があるわけです。
だから私は短い時間でもいいから「毎日やれ」という事をいうわけです。長い時間やると言うのも楽しみな事だし、結構な事ではあるけれども、飛び飛びに長い時間やったんでは坐禅の効果は出てこないと私は思っています。だから、皆さんには毎日やる事をお勧めする訳です。
たまにちょっと長い時間やるのなら、頑張って歯を食いしばってやればやれない事もないけれども、毎日やれって言われるとどうもうまくいかないと言うのが実情だと思います。しかしやっぱり毎日やれる様になって初めて坐禅のよさがわかって来るんですよ。
確かに懐弉禅師にしても「正法眼蔵随聞記」に述べられている通りだし、それから天童如浄禅師にしても、坐蒲を袂の中に入れておいて暇さえあればあっちこっちで坐っておられたと書かれています。まさにその通りであったと思うけれども、それは毎日の坐禅をやれる様になって、それからさらに長い時間やる様になったと、こう言う事だと見て間違いないです。
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