fc2ブログ
トップページ | 全エントリー一覧 | RSS購読

正法眼蔵 鉢盂 4

自分(道元)の亡くなった師匠である天童如浄禅師が大宋国の宝慶元年(1225年)天童山の住職となられた日に、法堂における正式の説法の際に言われた。

自分が過去に読んだ百丈禅師に関する記憶をたどってみるに、かつてある僧が百丈禅師に質問した「奇跡と呼ばれるような素晴らしい出来事とはいったいどんなことでしょうか」この質問に対して百丈禅師は「たった一人で、この百丈山で坐禅をしている事くらい素晴らしい事柄はない」と答えた。

この百丈禅師の言葉を聞いて、この説法を聞いている人々が気持ちを動揺させることがあってはならない。百丈禅師が「たった一人でこの百丈山で坐禅をしていることくらい素晴らしい事柄はない」と言われるならば、その通り百丈禅師にはとにかく坐禅をしておいていただこう。
  
仮に今日突然誰かが現れて、自分(如浄)に対して「奇跡と呼ばれるような素晴らしい出来事とはいったいどんな事でしょうか」と質問したならば、自分はその人に対して次のように言うであろう。「我々の日常生活というものについて、そんな奇跡の様に素晴らしい出来事があるはずがない」
  
では結局のところどういう事かと言うならば、自分(如浄)が浄慈寺の住職であったころに使っていた鉢盂(応量器)をこの天童山にそのまま持ってきて、その鉢盂を使って毎日食事を頂いている事実そのものくらい素晴らしい事柄はない。



           ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
私はカトリック信者として信仰という面で自分では忠実に従っていたし、信仰にのっとった生き方をしてきましたけれども、仏教をお習いしてからこの二年間を振り返ってみますと自分はある意味でずいぶん大人になったと感じます。それと同時に自分の中に直観を直観としてストレ-トに出せるという、そういった幼児性が発達したという面も感じます。

この間テレビのニュ-スを見ていたら、いまのカトリックの法王がポ-ランドに帰ったと出ていましたが、ああいうのを見ていると「ああ、絵空事」という感じがしたんですね。ああいう絵空事を私は何十年も本当に真実だと思ってずいぶん生きてきたけれども、今の私にとってはあれはすべて絵空事に過ぎなかったという事をつくづく実感した。

ああ私は仏教を習ってほんとに大人にさせていただいて、ほんとに落ち着いて日常の行動、生き方に焦点を合わせて生きていけるようになって、「ああ、神様」なんて天上を見てとんでもない絵空事をしなくて済む、地に足がついた生活が出来るという喜びをまた新たに感じました。

先生
うん、そう。その点では、ロ-マ法王がポ-ランドを訪れたという事は大変面白い話でね。一昨日、私のところにいつもお昼前後に来るベリ-というアメリカ人がやっぱりその問題を取り上げて、「ロ-マ法王がポ-ランドに行った事件というのは中々面白い。

ポ-ランドの政府が、法王は政治に関与することを避けてほしいという事を言っている。ただロ-マ法王は政治に関連しないという外見を示しながら政治に関連しに行ったんだ。だから、ロ-マ法王がポ-ランドに行ったこと自体が非常に大きな政治的な意味を持っているのであって、ポ-ランドの政府が政治的に関与しないでほしいという希望を述べていることが中々面白い」という話をしていました。

まさにその通りであって、その点では、ああいう動きというのは、宗教的な動きと言うよりは世俗の出来事です。先ほどちょっと神道の問題と関連して話しが出ましたけれども、そういう世俗の動きと仏教とは関係がないんです。だから道元禅師が「名利の心を離れろ」と言われたのは、名利の心を離れないと本当の宗教の世界というものは見えてこないんです。

仮に外見は宗教的な形をしていても、世俗的な名誉や利得のために動いている間は、宗教と無関係だ、仏教と無関係だという事がはっきり言えるわけですよね。そういう点で仏教の持っている思想というものが、単に世俗の動きを嫌うという事ではなしに、世俗の価値観に支えられた世界以外に本当の価値の世界があるという事を主張しておられるという事が言えると思います。

だから、そういう世界を狙っていかないと、我々生きている甲斐がないと、そういう事が言えると思います。


ご訪問ありがとうございます。

ランキングに参加しています。応援クリックお願いします。
関連記事
トラックバック
トラックバック送信先 :
コメント
747:今日永平上堂 by 得丸久文 on 2021/10/20 at 03:33:08

道元和尚廣録の上堂語378には、「如何なるか是、奇特の事」と聞かれたら、「今日、私が上堂することだ」と言う言葉がありますね。

750:Re: 今日永平上堂 by 幽村芳春 on 2021/10/20 at 22:44:26

コメントありがとうございます。

フリーエリア

ご訪問ありがとうございます。 「正法眼蔵」は仏道を勉強する上において「なぜ坐禅をやらなければならないか」という事を事細かに疑問の余地のない形で詳細を述べておられる。だから「正法眼蔵」を読んで仏道の理論的な側面を勉強しながら自分自身で坐禅をやるならば、仏道修行においては欠けているところはない。―愚道和夫老師―

プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
70代女性。自営業。自宅で毎日朝晩坐禅をしています。愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」をブログで紹介しています。老師より平成13年「授戒」平成20年「嗣書」    

最近の記事

リンク

最近のコメント

カテゴリ

アクセスカウンタ-