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正法眼蔵 三十七品菩提分法 28 

※五根(1・信根 2・精進根 3・念根 4・定根 5・慧根) 

五根の5・「慧根」について道元禅師が注釈されます。
仏教における知恵とは単に理性の働きや心の働きだけではなしに、自律神経が均衡している時に直観的に得られるものを智慧と呼ぶ。慧根(智慧が原因になって真実に到達する)とは何かというならば、抽象的な論議に頭を悩ませることではなく※栄西禅師の様に<眼を見開いて自分の周囲を見つめることである。

切実に行動しなければならない現実に常におかれている我々は様々の問題について、理由というものを洗いざらい聞いていてもあまり問題の解決にはならない。たとえば「そもそも人生とは何か」等という呑気なことは言っていられない。きわめて現実的な事実をはっきりと睨むことが仏道修行である。

驢馬は驢馬らしく現に動き回っている。井戸は井戸として現に眼の前にある。真実に到達するための原因も具体的に現実に目の前にあるだけのものであって、それについて理由づけしたり分析したりする必要はない。

※栄西禅師の様に
道元禅師は比叡山で修業をしていたが、天台哲学では仏道の究極が理解できなかった。そこである人の勧めで京都の建仁寺に栄西禅師を訪ねた。その時に道元禅師がかねてから疑問に思っている天台哲学の問題を栄西禅師に尋ねられたと言われている。

道元禅師問う。
天台哲学では本来本法性、天然自性身―我々は誰でもこの宇宙と一体になったすぐれた素質を持っている、肉体的な問題についても、ありのままの肉体が素晴らしい性質を具えている―と主張するが、その様であるならばなぜ人間が仏道修行をしなければならないのか。

栄西禅師言う。
仏道では過去・現在・未来にわたって真実を得た仏がたくさんいると言われているけれども、自分は果たしてそういう方々がいるのかどうかよく知らない。猫とか牛とかがそこら辺をうろうろしているのは自分にはよくわかる。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
道元禅師は「様々の問題について洗いざらい質問しても問題の解決にはならない」と言いながら、天台哲学の「本来本法性、天然自性身」については「ああ、そうなんですか」と言わないんですか。その辺は・・・。

先生
これはね、仏道修行の順序なんです。それで道元禅師が比叡山におられた時にいろんな哲学問題について疑問を尋ねられたと言う状態があったればこそ、建仁寺に行って坐禅をしようという気持ちになったわけです。だから初めから理屈抜きで、もうそんなものはどうでもいいという事ではなしに、これも知りたい、あれも知りたいという事で夢中になって勉強しているうちに、理屈だけでは解決がつかないという事がわかってくるわけです。

そこで、修行に入って行くわけです。だから修行に入る以前には理屈の段階がどうしてもあるわけです。そのことが順序として言えるわけです。道元禅師のお立場はすでにもうその全段階の理屈を乗り越えた段階ですから、ここでは実行とか実践とかという事が非常に強く出てくるという関係にあるわけです。

だから疑問があったら大いに疑問を持って、一所懸命に勉強するという事はいっこうに差し支えない。只そういう理屈で一所懸命勉強しているうちに、「こんな事をやっていてもしょうがないな」という事に気が付く。理屈を考えに考えているとますます可笑しくなって、ますます理屈がわからなくなって来るという事情が我々の人生問題にはあるわけです。

その事情がわかってくると、「これはもう理屈じゃしょうがないから、足を組み、手を組み、背骨を伸ばしてジ-ッと坐ってましょう」という事になってくる。そういう仏道修行の段階というものがあるとみていいです。


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ご訪問ありがとうございます。 「正法眼蔵」は仏道を勉強する上において「なぜ坐禅をやらなければならないか」という事を事細かに疑問の余地のない形で詳細を述べておられる。だから「正法眼蔵」を読んで仏道の理論的な側面を勉強しながら自分自身で坐禅をやるならば、仏道修行においては欠けているところはない。―愚道和夫老師―

プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
70代女性。自営業。自宅で毎日朝晩坐禅をしています。愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」をブログで紹介しています。老師より平成13年「授戒」平成20年「嗣書」    

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