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正法眼蔵 三十七品菩提分法 12

釈尊が言われた。

一切の諸仏(真実を得られた人々)、また菩薩(真実を得ようと努力している人々)は、永遠にこの四念住という教えの中に我が身を置いて、この四念住こそは釈尊の説かれた真実の実体そのものであると考える。

釈尊の言葉について道元禅師が注釈されます。
この様な釈尊の言葉から推察するならば、真実を得られた沢山の方々も、真実を得ようとして一所懸命努力している菩薩の方々も、いずれもこの四念住という教えを清らかな実体として保持して今日に至った。

銘記せよ。
菩薩が仏道修行をしその最終段階の一つ前の段階に到達している状態も四念住の状態だと言う事が出来るし、菩薩の境地では最高の境地されている妙覚もまた四念住の境地という事が出来る。この四念住という教えは単に菩薩の仏道修行の最終段階である妙覚と同じというだけではなく、それ以上のものだという事がどうして言えないであろう。

真実を得られた方々(諸仏)も、この四念住を仏道修行の結果得られる清らかな実体であると言われた。そして菩薩の境地の最後から二番目の境地、あるいは最終の境地と言われている等覚や妙覚をさらに飛び越えた(菩薩)仏道修行というものも、やはりこの四念住という教えを自分自身の実体として捉えているという事が言えるのである。

この様に考えてくると、真実を得られた方々や仏教界の諸先輩が持っていた皮・肉・骨・髄という実体そのものが何かと言うならば、この四念住と呼ばれるところの教えに尽きるといっても差し支えない。

※西嶋先生解説
こういう点で、四念住の教えというものは、本来は小乗仏教の経典にみられる小乗仏教の教えというふうに考えられておるわけでありますが、道元禅師はその個々の一つ一つをご自分の仏教体験から開設されて、この四念住は決して小乗仏教の教えというふうな限界の中にあるものではなくて、、やはり釈尊ご自身の教えであり、その中心をなすものだという主張をしておられるわけであります。



              ―西嶋先生の話―

「瞑想」という言葉についてちょっとお話をしておきたいと思います。なぜお話しするかと言いますと、この瞑想という言葉が坐禅と同じ様な意味に使われている場合があるからです。たとえば東京大学のインド哲学の先生を長くやっておられまして、今日でも東京大学の名誉教授になっておられる玉城康四郎さんという方が、春秋社の道元禅師に関する講座の中で、「道元の瞑想的世界」という文章を書いておられるわけです。

この瞑想という言葉がその文章の内容から推察しますと、どうも坐禅の事を意味しておられるという問題があるわけです。なぜこういう結果が出てくるかと言いますと実は、西洋では坐禅の事をMeditationと呼ぶ習慣があるわけです。たとえば世界的に有名な仏教学者でエドワ-ドコンズという人がいるわけです。この人が「Buddhist Meditation」という本を書いているわけですが、この本で何を書いているかというと、坐禅の事を書いているわけです。

ですから西洋の世界ではMeditationという言葉が直ぐ坐禅を意味するという事情があるわけです。ただ坐禅というものを考えていった場合に、このMeditationという言葉の訳語の瞑想という言葉を使う事が、多少坐禅の内容を誤解することに繋がるのではないかという心配を私は持っているわけです。

なぜそういう心配をするかといいますと、「瞑」とは、「目をつぶる」というのが最初の意味です。「はっきりしない」とか、あるいは「神秘的である」というふうな意味を持っているわけです。それから「想」とは、「ものを考える」という意味です。ですから瞑想というのはどうしても、何か神秘的なものを考えるという意味にとられがちです。

また事実西洋の宗教、例えばキリスト教の中にも宗教的な一つの行事として、Meditationという事がある様で、そういうキリスト教の中におけるMeditationという修行法と坐禅とが何らかの形で関係があるように受け取られる心配があるというふうに感ずるわけです。なぜ瞑想という言葉を私は避けたいかと感じているかと言いますと、例えば道元禅師は坐禅の本質というものを「非思量」と言っておられるわけです。つまり、ものを考えることとは違うと。

その点では瞑想というものが何らかの形でものを考えるという内容をどうも示しがちであるから、なるべく瞑想という言葉を避けたいと、こういう問題があるわけです。「非思量」とは、考えることではないという事で、我々が坐禅をやっている時の状態を考えてみますと、腰骨を真っ直ぐに伸ばしてただ座っているという事が実情ですから、何かを考えている状態とは別であると、こういう事があるわけです。

そういうふうに腰骨を正しくして坐っているという事が、我々の骨格の全てを正しくする、筋肉の状態の全てを正しくする、自律神経の均衡を正しく保つ、体の内分泌の働きを正しくすると、そういう体の状態を正しくするという事につながっているわけで、そこに坐禅というものの非常に大切な本質があると、こういう問題があるわけです。

ですからその点では、キリスト教、特にカトリックの布教活動と坐禅という修行法とが関連あるという捉え方で、相互に連携をとって大いに広めようという動きがある様で、たとえば先日の日曜日NHKの「心の時代」という番組の中でも、平田さんという臨済宗のお師家さんの方と、キリスト教の神父さんとの対談があったわけです。

私は結論まで聞く時間がありませんでしたので、結論がどうなったかという事はちょっと承知しておりませんが、キリスト教において行われているMeditationと言われる修行法と坐禅というものとが簡単に一つのものだと言い切れるかどうか、その辺については多少疑問を持っているわけで、そのことがMeditationの訳語が瞑想であり、瞑想と坐禅とが一つにつながるという理解の仕方に進んでいくとすれば、そういう傾向についてはかなり検討してみなければならない問題があるのではないかと、そういう事を感ずるわけです。


ご訪問ありがとうございます。


                        
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コメント
736:瞑想とは by 阿佐谷北 on 2021/03/14 at 03:54:28 (コメント編集)

>キリスト教において行われているMeditationと言われる修行法と坐禅というものとが簡単に一つのものだと言い切れるかどうか、その辺については多少疑問を持っている

西嶋老師のおっしゃっていること、了解しました。

737:Re: 瞑想とは by 幽村芳春 on 2021/03/14 at 10:29:51

阿佐谷北さん、おはようございます。

いつもブログ読んでいただきありがとうございます。最近は瞑想と坐禅が同じであるかのように誤解している人が多いと思います。道元禅師の「正法眼蔵」では、坐禅は「只管打坐」であり「心身脱落」であり「修証一等」です。そして「非思量」考えない事です。

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ご訪問ありがとうございます。 「正法眼蔵」は仏道を勉強する上において「なぜ坐禅をやらなければならないか」という事を事細かに疑問の余地のない形で詳細を述べておられる。だから「正法眼蔵」を読んで仏道の理論的な側面を勉強しながら自分自身で坐禅をやるならば、仏道修行においては欠けているところはない。―愚道和夫老師―

プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
70代女性。自営業。自宅で毎日朝晩坐禅をしています。愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」をブログで紹介しています。老師より平成13年「授戒」平成20年「嗣書」    

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