カテゴリ:69・優曇華のエントリー一覧
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正法眼蔵 優曇華 14
自分(道元)の亡くなった師匠である天童如浄禅師が言われた。霊雲志勤禅師はある日、山登りをして疲れたので山の麓で休んでいた。その眼の前に桃畑があって、ちょうど桃の花が一斉に咲き誇っていた。その美しい情景を眺めた時に自分自身がいかに素晴らしい世界に現に生きているかという事に気がついた。しかし自分の見方からするならば、桃の花が散る時点において、やはり仏道の真実を知ることが出来る。 天童如浄禅師の言葉に...
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正法眼蔵 優曇華 13
釈尊と摩訶迦葉尊者とのやり取りについて道元禅師の注釈は続きます。自分の亡くなった師匠である天童如浄禅師が次のように言われた。釈尊が仏道修行の結果、ある朝東の空に輝く明けの明星を見た時に、従来のものの見方が一変した時点とは、いま現に目の前に雪が降り積もっていて、その雪の中で梅の花が一枝咲き始めたというありのままの事態と同じことを意味する。そのように寒い季節に梅が咲き始めたことは、梅がしぼみやしないか...
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正法眼蔵 優曇華 12
釈尊と摩訶迦葉尊者とのやり取りについて道元禅師の注釈は続きます。一般的に言うならば、仏道修行をして真実を得られた方々の究極の基準が何であるかを考えるならば、弄精魂(魂をもてあそぶ)という事態であり、それはただ坐禅をして体や心の障害から脱け出すことである。その様な形で坐禅を中心にして仏道修行をしていることによって、寺院における釈尊の像を安置した建物と直接何の障害もなしに顔を見合わせ、坐禅をする建物とも...
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正法眼蔵 優曇華 11
釈尊と摩訶迦葉尊者とのやり取りについて道元禅師の注釈は続きます。釈尊が「自分には正法眼蔵涅槃妙がある、これを摩訶迦葉尊者に伝える」と言われたのは、自分自身が何かを持っているという事態が、まさに摩訶迦葉尊者に対してその持っているものを与える事が出来たという事態と同じことを意味するのであり、摩訶迦葉尊者も何ものかを与えられたという事は、その何ものかを釈尊ご自身がお持ちになっていたという事を意味する。人...
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正法眼蔵 優曇華 10
釈尊と摩訶迦葉尊者とのやり取りについて道元禅師の注釈は続きます。この様に釈尊が瞬きをされたという事と、優曇華を手に持たれてこの世の中の実態というものを暗示されたたという事とは同じ事態を意味しているのである。釈尊が持っておられた優曇華の花そのものによって、この世の中のあり方というものがどういうものであるかという事が、言葉ではなしに具体的な事実として示されたのである。釈尊が優曇華の花を手に持たれたまさ...