カテゴリ:60・梅華のエントリー一覧
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正法眼蔵 梅華 27
太原孚上座が真実を得た際に言われた。自分が過去を振り返って考えてみるに、まだ真実を得ていなかった時点においては、異国人が吹く長い笛の音を聞くと物悲しい気持ちに襲われた。真実を得て後は、現在眠っている間にも無駄な夢は見ないようになった。そして梅の花に向かって風が激しく吹こうと穏やかに吹こうと、一向に気にならないようになった。太原孚上座の言葉について道元禅師が注釈されます。孚と呼ばれる仏道修行者は、本...
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正法眼蔵 梅華 26
かつて五祖法演禅師が言われた。北風が雪まじりとなって谷間の林を揺り動かしている。周囲の一切のものが姿を隠し静まり返ってひっそりとしている情景である。それは春を待ちこがれて、冬の寒さに文句を言っている境地ではない。そういう索漠とした情景の中で、ただ山の峰に生えている梅の木だけは意気軒昂として、歳末を前にして艱難に屈しない心意気を発揮している 五祖法演禅師の言葉について道元禅が注釈されます。この様...
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正法眼蔵 梅華 25
自分(道元)の亡くなった師匠である天童如浄禅師が言われた。様々の生きている世界というものはありのままに明々白々としている。梅の花を見た場合には直接その梅の花を楽しめばよい。その梅の花の内側や裏側に何かが隠されてはいないかとしきりに追及する事はやめるがよい。我々の住んでいる世界というものは、ある時は雨が降り、ある時は雲が立ち込めているという事を毎日のように繰り返しているけれども、そのような様々の変化と...
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正法眼蔵 梅華 24
「梅華」の巻はその後、梅の花に関連したいくつかの説話を取り上げて、さらに「梅の花」と言うものの意味を補足しています。もし万一にも自意識という魔物が現れ出て、釈尊のものの見方(ありのままに咲いている目の前の梅の花を、そのまま見ること)が出来ないという考え方が出てきた場合には、眼の前の梅の花をありのままに見る以外に、一体その様な実体を持った梅の花よりもさらに釈尊のものの見方に適合するものがあるであろう...
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正法眼蔵 梅華 23
自分(道元)の亡くなった師匠である天童如浄禅師が言われた。 人間の本質というものは生き死にという問題から抜け出している。生き死にという言葉による説明は必要ない。春にたとえて問題を考えてみるならば、春という抽象的な何かがこの世の中にあるのではなくて、春とは目の前に咲いている梅の花に他ならない。梅の花のような個別のものであると同時に、そのような個別なものが一つの絵の中に納まったものと言う事が出来る。...