カテゴリ:7・洗浄のエントリー一覧
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正法眼蔵 洗浄 8
まだ「洗浄」の巻は続きますが、これから先は寺院生活での用の足し方の作法等が述べられています。管理人は寺院で暮らす僧侶ではないのでこれ以降は省略します。※西嶋先生解説「洗浄の巻」全文で、この様に道元禅師は仏教の教え、釈尊の教えと言うものは日常生活をどうやるかと言う事に他ならないということを強く感じておられたから、手洗いの事についても事細かにその仕来たりと言うものを説明されたわけであります。ところがこ...
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正法眼蔵 洗浄 7
天童如浄禅師が当時の中国で髪を伸ばし爪を伸ばしていた僧侶に与えた言葉に言う。頭をきれいに剃ると言う事を理解していない者は俗人でもない、僧侶でもない。それは畜類以外の何ものでもない。釈尊以来仏道の真実を究められた方々は全て頭をきれいにしている。したがって頭をきれいに剃っていない者はまさに畜生である。天童如浄禅師の言葉を道元禅師が注釈されます。この様に多くの僧侶に対して教えを垂れたところが、長年頭を剃...
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正法眼蔵 洗浄 6
華厳経浄行品について道元禅師の注釈は続きます。右左の指の爪を切る必用がある。右左足の指の爪も切るべきである。足の爪、手の爪が、麦の一粒の幅よりも長い状態になったならば、宗教上非難される行為となると経典に記されている。したがって爪を長くしてはならない。爪が長いということは外道(釈尊の教え以外の教えを信じる人々)のやったところである。しかるに現在の大宋国の僧侶の間でも、仏道を学ぶ上の見識が具わっていない...
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正法眼蔵 洗浄 5
華厳経の浄行品に言う。大小の手洗いの用を足す際には人々が汚れを取り除いて、貪(むさぼり)や、瞋(怒り)や、痴(愚かさ)という人間の弱点と言うものを持たない様にと願うべきである。また手洗いの用を終わって水で手を洗う際には人々が最高の教えに向い、社会の規範を乗り越えた真実の教えを得ることを願うべきである。また水によって汚れを取り除いたならば、人々が落ち着いた気持ちで何事にも耐え忍ぶ力を具え、完全に汚れから...
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正法眼蔵 洗浄 4
大比丘三千威儀経に言う。体を浄めるという事は、肛門や尿道口を洗い、十本の指の爪を切ることである。大比丘三千威儀経について道元禅師が注釈されます。体も心も本来汚れのないものではあるけれども、さらに体を洗うやり方があり、それによって心を洗うというやり方がある。そしてただ体や心を綺麗にするだけではなしに、広く国土を清めることもある。国土は未だかつて塵にまみれ汚れに染まった事はないけれども、そういう綺麗な...