カテゴリ:7・洗浄のエントリー一覧
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正法眼蔵 洗浄 8
まだ「洗浄」の巻は続くのですが、これから先は寺院生活での用の足し方の作法等が述べられています。管理人は寺院で暮らす僧侶ではないのでこれ以降は省略します。 「正法眼蔵洗浄」 1239年旧暦10月23日 観音導利興聖宝林寺において衆僧に説示した。 ※西嶋先生解説「洗浄の巻」全文で、この様に道元禅師は、仏教の教え、釈尊の教えと言うもの...
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正法眼蔵 洗浄 7
道元禅師の注釈は続きます。我が師、天童如浄禅師が懇切な教誡の言葉を、その当時の中国で髪を長くし、爪を長くしている僧侶に与えた言葉に言うには、「頭をきれいに剃ると言う事を理解していない者は、俗人でもなく、僧侶でもない。それは畜類以外の何ものでもない。釈尊以来、仏道の真実を究められた方々は全て頭をきれいにしている。したがって、現在でも頭をきれいに剃っていない者はまさに畜生である」と。この様に多くの僧侶...
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正法眼蔵 洗浄 6
道元禅師の注釈は続きます。十本の指の爪を切る必用がある、十本の指と言うのは、左右両方の手の指の爪をいうのである。足の指の爪も切るべきである。「足の爪、手の爪が、麦の一粒の幅よりも長い状態になったならば、宗教上非難される行為となる」と経典に記されている。したがって、爪を長くしてはならない。爪が長いということは、外道(釈尊の教え以外の教えを信じる人々)のやったところである。しかるに現在の大宋国の僧侶の間...
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正法眼蔵 洗浄 5
華厳経の浄行品に言う。大小の手洗いの用を足す際には、人々が汚れを取り除いて、貪(むさぼり)や、瞋(怒り)や、痴(愚かさ)という人間の弱点と言うものを持たない様にと願うべきである。また手洗いの用を終わって水で手を洗う際には、人々が最高の教えに向い、社会の規範を乗り越えた真実の教えを得ることを願うべきである。また水によって汚れを取り除いたならば、人々が落ち着いた気持ちで何事にも耐え忍ぶ力を具え、完全に汚れ...
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正法眼蔵 洗浄 4
大比丘三千威儀経に言う。体を浄めるという事は、肛門や尿道口を洗い、十本の指の爪を切ることである。大比丘三千威儀経について道元禅師が注釈されます。体も心も本来汚れのないものではあるけれども、さらに体を洗うやり方と言うものがあり、それによって心を洗うというやり方がある。そして、ただ体や心を浄めるというだけではなしに、広く国土を浄めることもある。国土は未だかつて、塵にまみれ汚れに染まった事はないけれども...