FC2ブログ
トップページ | 全エントリー一覧 | RSS購読

正法眼蔵 三十七品菩提分法 8

四念住の3・観心無常について道元禅師が注釈されます。

観心無常心(心は変わりやすいものだと体全体で感じ取る)とはどういう意味かというならば、中国の第六祖大鑑慧能禅師が「我々の生きている人生というものが常に変化していて、恒常性なものが何もないという事がそのまま仏としての性質である」と。言われた。

この世の中の様々な生物がそれぞれ理解するところの、無常というもの、変転常ないのが実情であるという捉え方というものが、いずれも仏としての性質と言わざるを得ない。また永嘉真覚大師が「一切の行いは瞬間的なものであり恒常性がなく、一切は言葉によって限定することが出来ない、そしてそれこそが釈尊が説かれたところの偉大な欠けるところのないものの捉え方である」と言われた。

この様に考えてくると、心は変転常ないものだという事を体全体で感じ取るという事も、まさに釈尊が持たれたところの偉大で完全なものの捉え方に他ならない。したがって、そのようなものの捉え方は偉大で欠けるところのない実感であって、釈尊そのものという事もできる。

心がもしも体全体で感じ取るという心の働きを持たない場合でも、心そのものが周囲の状況に合わせて、それについて行くという性質を持っているのであるから、心さえ存在するならば、またその心を忘れて体全体で感じ取るという事実もあって不思議ではないと言える。



              ―西嶋先生の話―

非常に単純な事を言うようであるけれども、仏道と言うのは背骨を正しく保つ事といっても間違いではない。したがって我々は坐禅によって何をやっておるかと言えば、背骨を正しく保っておる。背骨を正しく保っておるということが我々の気持ちを落ち着け、我々の消化作用を順調にさせ、あるいは血液の循環を順調にさせ、神経を順調にさせるということで、健康と密接な関係がある。

健康であれば、我々は非常に明るい気持ちで生活することが出来る。体の調子が悪いと、腹を立てなくてもいい時に腹を立てたり、悲観しなくてもいいことを悲観してみたり、気持ちの上でも非常に動揺する。体の調子がいいとうきうきとして楽しくて、人生と言うのは何でこんなに楽しんだろうと思うくらい楽しいということもあり得る。

その原因と言うのは背骨を正しく保つということ。したがって背骨を正しく保つということを坐禅を通じて絶えずやっていれば、我々は目先何をやらなきゃならんかということが理屈ではなしに本能的にわかるわけ。その本能的にわかったやらなきゃならないことをコツコツと一所懸命やる、それが人生。それ以外に最高の人生と言うものはない。

極めて普通のやらなければならないことをコツコツとやるというのが最高の人生。それが十年、二十年と積み重なってくと、その人その人にとって最高の人生というものが自然に形づけられる。ところが現代はこういう思想と言うのはあまり流行らない。今日の主流の思想ということは言えない。

だから新聞でも雑誌でも人目に付く変わったことがたくさん書いてある。博打をやって三億円損したとか、あるいは子供を殺してしまったとか、様々な出来事、変わった出来事、普通ではなかなかお目にかかれないような出来事が新聞や雑誌をにぎわしておる。またそういう変わった事でないとニュ-スにならないから、新聞記者も一所懸命そういう変わった事を見つけて書き立てる。

ただ、そういう変わった事と言うのは、珍しいというだけであってあまり価値はない。我々の生活において、我々の社会の活動において、一番価値のあるのは、ごく普通の事をコツコツとキチットやれるということに尽きる。そういう点では、その基本が背骨を正しく保つということにある、ということが釈尊の教え。そのために坐禅をやると言う非常に単純な原理に尽きる。それ以外に仏道はないと言っても間違いではない。


ご訪問ありがとうございます。


正法眼蔵 三十七品菩提分法 7

四念住2・観受是苦について道元禅師が注釈されます。

観受是苦というのは、外界の刺激を受け入れる事がそのまま苦しみであるという見方をするという意味である。苦しみという事と外界の刺激を受け入れるという事とは一つのものである。

その様な外界の刺激を受け入れるという事は、自分自身の感覚と外界の刺激とが触れ合ったところに生れてくる瞬間的な事実であるから、それを自分のものだとか自分のものでないとかという区別をして受け取るわけにはいかないし、あるとか、ないとかという形で頭の中で割り切ることが出来ないほど現実的なありのままの事実である。生身の体が現に苦しんでいるという事情をいうのである。

れは甘く熟れた瓜をにがい瓢箪と置き換えてしまう様なものである。そして外界の受け入れというものは立場によっては途轍もなく苦しいものである。架空に頭の中で苦いものだと感ずることではなしに、生身の体そのものに苦いものとして感じられるのであり、頭の中で考えた場合も、頭の中の意識というものを棚上げした場合も同じように苦いという事が事実である。

この様に外界の感覚的な刺激というものが必ずしも望ましいものではないと読み取ることが、常識的な世界を乗り越えて一段と上の世界における神秘的な働きであり、仏道の実践であり、仏道の体験である。

「甘い瓜はへたまで甘い、にがい瓜は根まへにがい」という言葉があるけれども、その様な徹底して甘いへたの部分までも乗り越えて、事実がどのように主観的に受け取られようとも、その甘さをち超越してしまい、にがいという場合にもそのにがさを超越してしまうところの神秘的な働きというものが、「受ハ是レ苦ナリト観ズ」という言葉によって表現されているところのものである。

頭で考えてにがいとか、にがくないとかという事ではなしに、自分の人生における事実としてどう受け止めるかというふうな問題と関連している。この様なところから、まさしく生きとし生けるものの苦しみと表現したのであり、さらにもっと現実的に言うならば苦しんでいる生きとし生けるものが、これこの通り現に目の前に存在しているという事実でもある。

客観的に問題を考えていくならば、生きとし生けるものとは単に自分自身という事だけではない。生きとし生けるものとは自分以外だと断定するわけにはいかない。その様に自分とも自分以外とも断定することのできない生きとし生けるものがこの世の中に存在して、しかもその生きとし生けるものが苦しんでいるというのが実情である。

その様な事態はありのままの事実であってそれを誤魔化そうとしても、他人に誤魔化して説明しようとしても、そのことは不可能であるという実態が眼の前にある。我々の人生をありのままに見ていくならば、甘いものは甘いし、にがいものはにがいという実情ではあるけれども、この「苦」という一字をとってみても、中々その実体はつかむ事ができにくいものである。

そこで自分自身に質問してみるがよい。「苦しみとはいったい何なんだ」と。



           ー西嶋先生にある人が質問した―

質問
観受是苦の最後に「苦しみとは何か」を自分自身に質問してみるがよい、とありますが、これはいったいどういうことになるのかなって・・・。

先生
これはね、苦しみとは何かというのを見つけ回ったら、あるかどうかわからないという事です。「苦しい、苦しい」と思って泣きわめくと言う様な事が人生にはあるわけですけど、しかし「苦しみとは何か」と言うんで開き直って見つけてみると、苦しみがどこにも見つからないという事情もあり得るわけですよ。だから「苦しみとは何か」というのを見つけてみろと、こういう事を最後に言っておられるわけです。

質問
そうすると、苦しんでいるように自分が受け取ってしまっているという事になるんでしょうか。

先生
うん、そういう意味も含んでいます。だからここのところの考え方というものは、まず一切の感覚的な受け入れというものを「苦」というふうに捉えることが出来るけれども、それをもっと詰めていくならば、甘いものは甘いんだし、にがいものはにがいんだし、苦しいと言ってみてもどういう事はないし、苦しくないと言ってみてもどういう事はないし、という事が実情だ。

その実体に触れるという事、苦しいなら「苦しい」という事を腹の底から感じることが、またその苦しさというものを乗り越えるという関係にもある。そういう立場に進んでいくと、「苦しみとは何か」という事を見つけまわってみても、苦しみそのものがよくわからなくなってしまう。その事がここに言われていることの意味です。


ご訪問ありがとうございます。


正法眼蔵 三十七品菩提分法 6 

四念住1・観身不浄について道元禅師の注釈は続きます。

「水清ければ魚住まず」という事が言われるけれども、逆に「水が濁っているとこの川(池)には魚がいそうだ」と感じ取るというこの世の中のあり方を勉強してみる必要がある。衣類に関してもいろいろな衣服があり、それらをいずれも洗うという事が行われる。この様に縦からも横からも考えてくると、初めて衣類を洗う事についての現実のあり方が具体化してくる。

そして、洗ったとか、洗わないとかという事に関連して、きれいになったとか、きれいになっていないとかという事を読み取ることが出来るのである。この様な基本的な考え方は衣類を水に浸すという事が一番の目的ではない。水がきれいであるとか水が汚れているという問題より、とにかく水を使って衣類を洗うという事の中に本来の目標がある。

そしてさらに、五大(火・風・土・水・空)等の五種類の物質的要素を使って衣類を洗ったり、その他のものを洗うというやり方もある。今ここで述べている、「生身の体は必ずしも清らかなものはない」と直観する趣旨もまた同様である。そしてこのようなところから、体全体で何かを味わうという事の全て、清らかでないという状態の全てが母親が産んでくれた所の袈裟であり、我々の生身の体そのものである。

もし仮に、お袈裟というものが母親の産んでくれた我々の生身の体と異質なものだと主張するならば、その様な人為的なものは釈尊ご自身がお使いにならなかったであろう。母親の産んでくれた生身の体そのものがお袈裟の意味を持っていたという事例は、およそ人間と生まれた以上、誰でもが生身の体を持ちお袈裟を掛けているとみることが出来る。この様な基本原則を十分に心にとめて勉強しその意味を究めておく必要がある。




           ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
私は体が汚いと感じるのは、こんな回りくどい言い方をしなくてもよくわかっているという感じでちょっと不愉快な感じを受けたんですけど、読み進んでいくうちにありがたいなという気持ちがしみじみ湧いてきました。最後の方に、生身の体は汚いものだけれども、現実にその生身の体が人生を生き抜いていくという事で、それはそれで尊いのだという風な・・・。

先生
そうですね。だから道元禅師がお書きになったのは今言われたような事柄なんです。それで「観身不浄」という事を小乗的な立場で捉えますと、我々の体はきれいなもんではないんだという事で終わっちゃうわけですよ。ただ、釈尊が説かれたところ、あるいは道元禅師がそれを解釈された立場というのはどういう事かと言いますと、汚いものを使って綺麗な人生を生きるという事があり得る。

つまり行いの世界に入っていくと本来汚いとかきれいとだとかというけじめはなくなってしまって、きれいか汚いかわからんものを使って一所懸命人生を生きていくことが仏道修行の全てだと、そういう主張に代わってきますから、小乗的な捉え方から大乗的な捉え方にこの道元禅師の解説の中で自然に変わっていくわけです。

だから最後のところでは、我々の生身の体というものが、母親が生んでくれたお袈裟なんだと、そういう主張に変わっているわけです。


ご訪問ありがとうございます。


正法眼蔵 三十七品菩提分法 5 

四念住1・観身不浄について道元禅師の注釈は続きます。

一般的に言うならば、釈尊が六年間の修行の結果、ある夜半に明星を見られた時にこの世の中の実体がなんであるかという事を見抜かれたその基本的な原則を、「生身の体は必ずしも清らかなものはない」と体全体で味わった瞬間と呼ぶのである。

ここで「清らかではない」という言葉を使っているけれども、それは清らかだとか、汚れているとかという比較の立場から論議しているわけではない。生身の体として存在すること自体が清らかのものではないという意味であり、現実の世界に身を置く事自体が清らかなものではないという意味である。

この様な形で仏道の真実を勉強していくにあたっては、悪魔というものを材料にして、その悪魔を降参させて仏になるという事が行われるのである。また仏(真実を得た人)が仏になる場合には、仏を材料にして、仏になりたいと思い、その結果仏になるのである。また人間が仏になるという場合には、人間を材料にして人間を調教する事によって仏になるという事が行われるのである。

仏道修行において問題を解決するためにはその様な形で、自分の体を動かして行動していくことが原則であるという事を勉強しなければならない。

そういう行いを通じて問題を解決していくというふうな仏道修行における基本原則を例に挙げて説明するならば、衣類を洗う時の方法に似ている。水で衣類を洗う場合には、衣類を洗う事によって衣服の汚れが水の中に出てくると同時に、衣類というものに水がしみ込んでいくという事が行われる。

水が汚れた場合に、さらにその汚れた水を使って衣類を洗い、極端に水が汚れたならば、その水を取り換えてまた洗うのであるが、やはり依然として水を使い衣類を洗うのである。一回洗った、二回洗ったという段階で衣類に清らかさが出てこなかった場合には、そこで衣類を洗う事をやめてしまうという事があってはならない。

一所懸命に洗って、水が汚れてまた変えて、また水が汚れたという形で、水が無くなったらまた更に新しい水を汲んで来て使うという事をするのである。仮に衣類が汚れていなかった場合でも、衣類を洗うという事は日常生活で常に行われる。衣類を洗う場合には、小川の水を使う場合もあり、岩の中から湧き出している清水を使う場合もあるし、およそ水である限りどんな水でもものを洗う事に使うことは可能である。



           ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
先生、大変俗な事をお伺いするんですけど、友達は選んだ方がいいとか選ばなきゃなんないということは、仏道にはありますか。なんだか「あなたは頑固ね」と言われちゃうんですよ。あの人は嫌だ、この人は嫌だって。(笑)

先生
それでね、あんまり好き嫌いが多いことはやっぱりある意味避けなきゃならんことだと思いますよ。というのは、全体をありのままにそれでいいんだという見方になりますと、あれがいい、これがいいという事はなくなるという事はあると思うんですね。だからその点では、「清濁併せ呑む」というふうな生き方もあると同時に、必要だということはあると思いますね。だからその点では両方が含まれていると思います。友達を選ばなきゃならんと言う教えと、それから清濁併せ呑むというのと両方が必要だという事があると思いますよ。

そうすると「どうも矛盾しているんじゃないか」と言う問題になるんですけれども、現実の我々の日常生活と言うのは、そういう両方の要素を多分に含んでいる。片一方だけではどうも整理がつかんと言う問題、これはあると思いますね。現実とはそういうもんだと。現実と言うのは、両方の極があって、その矛盾の中にあるという見方がどうもあたっておるんじゃないかと言う気がしますね。

だからその点では、片っ方だけの教えで全部割り切るという考え方は割合少ないですね、仏教には。そういう点では、普通の人は「どうも仏教はどっちいってんだかよくわからない、中途半端で難しい」と言う批評が出てくるわけですけれども、現実そのものが中途半端で難しいんですね。だから現実の社会を割り切るためには、中途半端で割り切れない理論がなければならんということになると思いますね。


ご訪問ありがとうございます。


正法眼蔵 三十七品菩提分法 4

四念住1・観身不浄について道元禅師の注釈は続きます。

行いの世界、つまり箒を持って地面を掃いている世界というものは、言葉では表現できないような形で地面を掃くという事が行われるのである。その様な状態においてはこの大きな大地の上で言葉では表現できない何かをやっている姿である。我々が生身の体を体全体で感じるという事は、生身の体全体が何かを感じ取っているという事でもある。

体で何か感じ取ると言ってみても、その主体は生身の体そのものであって、生身の体が何かを感じ取っているという事であって、生身の体以外のものが何かを感じているという事ではない。

その様にまさに体全体で何かを感じ取っているという状態、つまり足を組み、手を組み、背骨を伸ばして坐っている状態とは、常識的な世界、不安に駆られている世界、不満を持っている世界ではなく、何らかの高い境地のものが現に到来しているという状態である。

坐禅の境地の中で、生身の体全体で何かを感じているという状態が現に具体化している時には、心を中心にして何かを捉えるという事は、手探りで見つてみてもどこにも見当たらないという状態である。つまり、心を中心にした問題はどこかに行ってしまって、体がただ坐っているという状態である。それは心がどこにあるかと言う事の意識が必要でなくなった状況である。

その様な状態が金剛にも例えることのできる強固な安定の境地であり、人間を煩わせる一切の障害から解き放された境地であって、その様な状態が生身の体が必ずしも清らかなものではないという状況を体全体で味わっているというのである。



          ―西嶋先生にある人が質問した―
           
質問
「みずから規矩を立する事なかれ」と言う言葉がありますが、いま私は理事会の役員をしているのですが、どうしても自分の考えを基準にやりますし、ある程度人に押し付けてというきらいがあるのですが・・・。

先生
これは、自分の考え方をもつ事が悪いと言うのではなく、人の考えを聞くという事はかなり大事な事です。相手がどう思っているか聞いて、そう言う考え方もあるのかと言う事で相手の考え方と自分の考え方とを突き合わせて見て、そこにだいたい誰でも納得するような線が出て来ると言う場合が多いです。

ところが、自分の考え方に自信を持っている人はそう言う事をしない。他人の言う事は全部間違いで、自分の言う事だけが正しいと思うから「これが正しい、これが正しい」と言って押し付ける。しかし、他の人も同じ様な態度だから意見が分かれて話がまとまらないと言う例が非常に多いと思います。

だから相手の考えている事を聞く態度が社会一般に広がっていくと、この世の中はもっと丸くなり和になると思います。今どきの考え方は、人よりもちょっと違ったいい意見を出して認められたいと言う気持ちが強いから、自分独特の意見を出して人に褒めてもらおうと言う考え方が強いですね。ただこれだと、全体の考え方が中々まとまらないと言う事情があると思います。


ご訪問ありがとうございます。


フリーエリア

ご訪問ありがとうございます。 「正法眼蔵」は仏道を勉強する上において「なぜ坐禅をやらなければならないか」という事を事細かに疑問の余地のない形で詳細を述べておられる。だから「正法眼蔵」を読んで仏道の理論的な側面を勉強しながら自分自身で坐禅をやるならば、仏道修行においては欠けているところはない。―愚道和夫老師―

プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
70代女性。自営業。自宅で毎日朝晩坐禅をしています。愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」をブログで紹介しています。老師より平成13年「授戒」平成20年「嗣書」    

最近の記事

リンク

最近のコメント

カテゴリ

アクセスカウンタ-