正法眼蔵 四禅比丘 9
「摩訶止観弘決」より引用された説話について道元禅師の注釈は続きます。
仮に四果(仏道修行における第四段階の成果)を得た聖者であったとしても、どうして釈尊の境地に及ぶことがあろう。釈尊の弟子であった舎利弗尊者は非常に長い期間にわたって四果を得た聖者であった。
そして全宇宙の中にあるところの智慧をすべて集めて釈尊を例外として取り除き、それ以外の全ての知恵を一つにまとめ舎利弗尊者の知恵を十六分の一に分けたその一分と全宇宙の智慧とを比較してみるに、釈尊を除いた全宇宙の智慧は舎利弗尊者の十六分の一の智慧にも及ばないのである。
その様に優れた智慧を持った舎利弗尊者でさえ、釈尊がいまだかつて説かれたことのない教えをお説きになるのを聞いて、釈尊が先に説かれた教えと後に説かれた教えとの内容が違っていても自分が騙されたというふうには考えなかった。
釈尊の教えが様々に説かれている状況というものは悪魔がその教えを説く状況とは異なっている。釈尊が様々の教えをお説きになるのに対して、悪魔はたった一つの教えしか説かないということを考えて釈尊の教えが様々の変化を持っていると褒めたたえた。
釈尊は福増長者と呼ばれる金持ちを仏(四果)に導いたが、舎利弗尊者は福増長者と呼ばれる金持ちを仏に導くことはなかった。四果と四禅は非常にその内容が違っているのであって、その違いというものは、釈尊の場合と舎利弗尊者との場合との違いに明かである。
仮に舎利弗尊者やその他の弟子達と同じような智慧の人々が、この世の中に満ち溢れていてそれらの人々が一斉に釈尊の持っておられた智慧を推察しようとしてもそれはできることではない。
つづく--
―西嶋先生にある人が質問した―
質問
道元禅師は人間は完成があるということに確信を持っておられて、それに基づいて「正法眼蔵」を著述した事にもなろうかと思いますけれども、完成する人間というのは数少ないんじゃないですか。
先生
いや、そんなことはないです。坐禅を毎日朝晩しておれば、早かれ遅かれ人間の完成というのはあり得ます。ですから決してごく少数の人間が仏になったということではなしに、坐禅をやっておりさえすれば仏になれるということが事実です。ただ坐禅をやらないで仏教書を読んで仏になろうなどと思っても、これはだめだという、これもまたはっきりと言えると思います。
今日、仏道がなぜ衰えているかと言いますと、坐禅をやる方が非常に少ないということです。仏教書を読むということは非常に盛んに行われているかもしれないけれども、坐禅を毎日やるということが非常に少ないということです。坐禅を毎日朝晩やっておれば早晩仏になるということは間違いないです。
ですから、決して人間の完成というものの例が少ないということではなしに、誰でも毎日朝晩坐禅をやっておれば、仏としての生活以外の生活はできないという、そういう事実があると思います。
質問
今は功利主義の世の中だから、先生のおっしゃる様に「名利を捨てて坐禅一本に縛ってやれ」と言っても、「そしたらどうなるんだ」ということが先に出ちゃって、お答えばかり聞いたって人間の完成と言うのに尊いということを今は中々感じる人が少ないから、その少ないだけやっぱり完成した人間というのは少ないんじゃないでしょうか。
先生
うん。それでね、尊いと思わなくてもいいんですよ。仏になるということは幸福になることですよ。自分自身になることですよ。だから自分自身になるということは、自分が何のために生きてきたか生まれてきたかということがはっきりわかって、何のために生きているのかということがはっきりわかって、非常に大きな幸福感を感じるということが仏の状態です。
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仮に四果(仏道修行における第四段階の成果)を得た聖者であったとしても、どうして釈尊の境地に及ぶことがあろう。釈尊の弟子であった舎利弗尊者は非常に長い期間にわたって四果を得た聖者であった。
そして全宇宙の中にあるところの智慧をすべて集めて釈尊を例外として取り除き、それ以外の全ての知恵を一つにまとめ舎利弗尊者の知恵を十六分の一に分けたその一分と全宇宙の智慧とを比較してみるに、釈尊を除いた全宇宙の智慧は舎利弗尊者の十六分の一の智慧にも及ばないのである。
その様に優れた智慧を持った舎利弗尊者でさえ、釈尊がいまだかつて説かれたことのない教えをお説きになるのを聞いて、釈尊が先に説かれた教えと後に説かれた教えとの内容が違っていても自分が騙されたというふうには考えなかった。
釈尊の教えが様々に説かれている状況というものは悪魔がその教えを説く状況とは異なっている。釈尊が様々の教えをお説きになるのに対して、悪魔はたった一つの教えしか説かないということを考えて釈尊の教えが様々の変化を持っていると褒めたたえた。
釈尊は福増長者と呼ばれる金持ちを仏(四果)に導いたが、舎利弗尊者は福増長者と呼ばれる金持ちを仏に導くことはなかった。四果と四禅は非常にその内容が違っているのであって、その違いというものは、釈尊の場合と舎利弗尊者との場合との違いに明かである。
仮に舎利弗尊者やその他の弟子達と同じような智慧の人々が、この世の中に満ち溢れていてそれらの人々が一斉に釈尊の持っておられた智慧を推察しようとしてもそれはできることではない。
つづく--
―西嶋先生にある人が質問した―
質問
道元禅師は人間は完成があるということに確信を持っておられて、それに基づいて「正法眼蔵」を著述した事にもなろうかと思いますけれども、完成する人間というのは数少ないんじゃないですか。
先生
いや、そんなことはないです。坐禅を毎日朝晩しておれば、早かれ遅かれ人間の完成というのはあり得ます。ですから決してごく少数の人間が仏になったということではなしに、坐禅をやっておりさえすれば仏になれるということが事実です。ただ坐禅をやらないで仏教書を読んで仏になろうなどと思っても、これはだめだという、これもまたはっきりと言えると思います。
今日、仏道がなぜ衰えているかと言いますと、坐禅をやる方が非常に少ないということです。仏教書を読むということは非常に盛んに行われているかもしれないけれども、坐禅を毎日やるということが非常に少ないということです。坐禅を毎日朝晩やっておれば早晩仏になるということは間違いないです。
ですから、決して人間の完成というものの例が少ないということではなしに、誰でも毎日朝晩坐禅をやっておれば、仏としての生活以外の生活はできないという、そういう事実があると思います。
質問
今は功利主義の世の中だから、先生のおっしゃる様に「名利を捨てて坐禅一本に縛ってやれ」と言っても、「そしたらどうなるんだ」ということが先に出ちゃって、お答えばかり聞いたって人間の完成と言うのに尊いということを今は中々感じる人が少ないから、その少ないだけやっぱり完成した人間というのは少ないんじゃないでしょうか。
先生
うん。それでね、尊いと思わなくてもいいんですよ。仏になるということは幸福になることですよ。自分自身になることですよ。だから自分自身になるということは、自分が何のために生きてきたか生まれてきたかということがはっきりわかって、何のために生きているのかということがはっきりわかって、非常に大きな幸福感を感じるということが仏の状態です。
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