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正法眼蔵 古鏡 35

雪峰義存禅師と玄沙師備禅師の問答に関連して道元禅師の注釈は続きます。

その点では雪峰義存禅師が言われた言葉の中でも、古鏡(永遠の価値を持った鏡)というものが一枚あり、明鏡(くもりのない鏡)というものがまた一枚あるのである。そして古鏡の前に明境が現れたまさにその時点においては、古鏡だけの時に現れた外国人、中国人を追い払いまったく否定してしまうと言う事ではない。

鏡と鏡が向かい合って共に隠れると言うが、その事が外国人や中国人の存在そのものを否定している訳ではない。たまたまそこに現れなかっただけの事である。そういう事をはっきり知らなければならない。

今ここで鏡を例にとって古鏡というものの前に、外国人が来れば外国人が映り、中国人がくれば中国人が映ると言っているけれども、その現れ方というものは古鏡の上に来たり現れたりすると言っているわけではない。また鏡の中に外国人が映り中国人が映るとも言ってはいない。

古鏡の外に現れると言っているわけでもない。古鏡と同時に現れてくるとも言っていない。ここで外国人が現れた、中国人が現れたと言っているけれども、その意味は鏡そのものが外国人を出現させ、鏡そのものが中国人を出現させたと言う関係を言っているのである。

鏡と鏡が向き合って外国人も中国人も共に姿を見せない時も、鏡はやはり二枚そこに残っていたと言う考え方をするならば、現われるという言葉の意味がハッキリわかっていないし、現れて来ると言う言葉の意味がハッキリわかっていない。それは、錯乱している、全く気が狂っていると表現しても、まだ十分でないほど問題の本質がわかっていない。



          ―西嶋先生にある人が質問した―
 
 --つづき
ところが各人には自分自身の人生がある。自分自身の生命というものがある。それをいかに発揮するかという事が、自分がこの世の中に生きている間にやらなければならない最大の問題だとするならば、損得とか人がどう思うかなんてそんなつまらんことは考えられない。

今日はどうするか、今どうするかという事で無我夢中で働くという事にならざるを得ない。それはちょうど自分のところが火事になって、一つでも多く荷物を持ち出そう思って無我夢中になっているという事と似ておる。ただそれ以上だ。

家財なんて燃えたってまた稼げば出てくるけれども、自分自身に与えられた現在の時間というものは経ってしまえば永遠に帰ってこない。だから人生の中で一番大切なのは時間だ。時間というのは我々の命そのもの。だから時間を無駄にするという事は、自分の命を無駄にするという事に他ならない。

その点では、仏教というのはものを考えるのも大事だし、感覚的に優れておることも大事だけれども、それよりも大事なのは一所懸命働く事だというのが仏教哲学の基本にある。一所懸命生きる事が自分の人生そのものという考え方を繰り返し繰り返し説かれておられる。

人生問題という事を考えていくとこの考え方がかなり大切、こういう考え方は最近の新聞や雑誌には殆ど載っていない。どうやったら得が出来るかとか、どうやったら人に褒められるかというような事がいっぱい書いてある。本屋さんに行けばそういう事だらけで、とても全部は読んでいられないというほどたくさん書いてある。

だけれども、そういう事で一所懸命やっても時間の無駄になっちゃう。もっと大事な事は自分がどう生きなきゃならんか、どう生きるかという事に尽きるわけ。これは損得というふうな問題よりも大事なこと。人が誉めてくれないとかという事よりもさらに大事なことです。

釈尊は自分自身の人生をどうするかという事、その一番大切なことをしっかりおやんなさいというふうに言われた。仏教の教えというのはそれに尽きるという事が言えると思います。
                       つづく--


最後までお読みいただきありがとうございます。

正法眼蔵 古鏡 34

雪峰義存禅師と玄沙師備禅師の問答に関連して道元禅師の注釈は続きます。

前に述べた問答の中で雪峰義存禅師が「鏡の前に鏡が現れた場合には、外国人も見えなくなるし中国人も見えなくなる」と表現されたけれども、その言葉は「外国人も中国人も、明鏡(くもりのない鏡)が現れた時には、現れようがないと言う事を言われたのである。

この中国人も外国人も現れようがないという言葉の意味は一体どういう事であろうか。外国人や中国人が鏡に映るという場合に、その外国人や中国人が映ったという事によって鏡そのものがなくなったわけではない。鏡があればこそ中国人も映り外国人も映ったのである。

中国人や外国人でなしに鏡そのものが出てきた時、鏡と鏡とが重なった時、自分自身が一つになった時、自分自身が無我夢中で働いている時には、なぜ外国人も中国人も姿を見せなくなってしまうのであろうか。

古鏡(永遠の価値を持った鏡)の場合は外国人が姿を現せば鏡に映るし、中国人が姿を現せば鏡に映るという事であるけれども、明鏡(くもりのない鏡)が現れたと言う事は事情が変わったのである。

自分自身がたった一つのものになったと言う状態では、自分以外の外界の世界はすべて姿を隠す。ものを考えたりものを感じたりしている余裕はなくて、自分自身が一所懸命に働く状態が現実に出てくるのである。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
坐禅というのは、思惟や考える事をやめよと言われますね。要するに頭を空っぽにするという事ですね。

先生
そうすると黒板を一所懸命ふくようなもんで字を書いちゃいけないというような努力になるけれども、そういう事でもないんでね。逆に「さあ火事だ!自分の荷物を一つでも多く持ち出そう」と言って、一所懸命にやってるのが坐禅と同じ境地だという事も言えるね。

つまり、ものを考えちゃいかんというような事じゃなくて、背骨が真っ直ぐになっているか、寝ちゃいかん、居眠りしてはいかんという風な事でもある、それが坐禅。これも坐禅というものの理解のためにはかなり大切な事だと思う、これも最近強く感ずるわけ。

その点では「三昧王三昧」の巻に「打坐を打坐と知るなし」という言葉がある。坐禅が坐禅だと言う事がわかっておる者がおらんという表現がある。坐禅は何らかの目的の為にやるものという事ではなしに、足を組み、手を組み、背骨を伸ばしている事という事がわかっている人間がいないと言っておられる。

その事が坐禅というものを見ていく場合に大切な事で、自分の家が火事になったら荷物を持ち出すのは大変という事以上に大変かもしれない。その点では現在自分が与えられた境遇に従って一所懸命生きるという事が、人生そのものだという事にもならざるを得ない。

ところが割合こういう生き方をする人が少ない。大抵は働くのは人様だと思って横から眺めて「まあこの位やっていればいいだろう」とか「あんまり働き過ぎて体を壊しちゃいかんから一歩退いて」とか「月給が上がるように働くふりをして」とか、いろいろ複雑なわけ。

だけどそういうつまらん立場でなしに、与えられた仕事を無我夢中でやる立場、人間の生き方としてそれがかなり大事。これは損得の問題を乗り越えてる。損得を考えていると自分の人生が損得の上にのった人生になってしまう。

そうすると自分の本当の人生の価値というものはどっかへ行ってしまう。自分の人生と損得というものとを置き換えてしまう。そうかと思うと「人がどう思うか、人が誉めてくれるかどうか」という風な事を基準にして、それだけを夢中になって考えていると、やはり自分自身の人生というものはどっかへ行ってしまう。人がどう思っているかという事だけが気になる。
                       つづく--

正法眼蔵 古鏡 33

雪峰義存禅師と玄沙師備禅師の問答に関連して道元禅師の注釈は続きます。

抽象的に時間を超えたモノは何でもお見通しである、古鏡と言う言葉を聞いたら、すぐそれが明鏡(くもりのない鏡)だというふうに短絡的に理解してはならない。

ここで古鏡とか明鏡と言っているが所詮は自分自身が自分自身を管理できるかどうかと言う問題に帰着する。インドにおける仏教界の諸先輩も自分自身をしっかり掴んでいた。

自分のやりたいと思う事をしっかりとやり、自分のやりたくないと思う事はやらないで済ます事が出来るかどうかと言う事が仏道修行者の目的である。その境地に達するように一日も早く努力すべきである。

仏教界の先輩方が言われている。「時代を超えて古くから我々が持つているところの素晴らしい価値というものも、やはり磨く必要がある、鍛錬する必要がある」と。

その点では明鏡(くもりのない鏡)といえどもやはり磨かなければならないのであろうか。その点もよく研究してみる必要がある。まさにひろく仏教界の先輩方が言っておられる言葉を勉強してみる必要がある。



          ―西嶋先生にある人が質問した―                                                                            

質問
道元禅師は最初、在家でもそれなりに努力をすれば相当いけると、後半になると出家して専門的にやって厳しく戒律を守らなければ駄目だと。それは道元禅師の思想が変わられた訳ですか。

先生
道元禅師の書かれたものでは、確かに出家についての考え方の変化があるという事は事実です。ただ今日の問題として、出家しなくても仏道がわかるかどうかと言う問題については出家しなくても仏道がわかるという事、これはハッキリ言えると思う。

出家しなくても仏道がわかるためには何が必要かと言うと、毎日坐禅をやるかやらないかだけですよ。出家する、出家しないと言う問題よりも、毎日坐禅がやれるかやれないかだけで、仏道がわかったかわからんかが決まる訳です。

今日の様に経済生活が発達して来ると、人間が余暇を持つ事が出来る様になった訳ですよ。道元禅師の時代は生産性が低いから、よほど特別な人ではない限り寺院に入って坐禅を専門にやると言う事が出来なかった。

今日は生産力が発達してきたから、誰でも一日のうちのある程度の時間は余暇として自分の好きな様に使える時代がやっと来たわけです。だからそう言う時代には、そう言う余暇を利用して坐禅をやれば、在家の人でも立派に仏道がわかるという事、これはハッキリ言えると思います。

正法眼蔵 古鏡 32

雪峰義存禅師と玄沙師備禅師の問答に関連して道元禅師の注釈は続きます。

玄沙師備禅師が「突然くもりのない鏡が永遠の鏡の前に出現したらどうなりますか」と言う言葉で、縦横無尽に明鏡と古鏡を説明し、性と相というものを説明していると言う事を知るべきである。

またその様子というものがどこから眺めても透き通っていて美しい状態である。その事は別の言葉で言うならば、人と人とが出会うという事はその人が仏としてこの世に出現する事に他ならないし、人が仏としてこの世に現れたという事は、その現れたという事だけで人に対する教えを施す事が出来るという事にもなる。

そうしてみると、玄沙師備禅師が例にとられたところの明鏡と古鏡の時代を超えた価値とが同じものだと考えたらいいのであろうか、別々のものと考えたらいいのであろうか。明鏡と古鏡との関係から言うならば、明鏡と言う言葉でたとえられた人間の心というものの中に、

時間を越えた尊さが含まれているのかどうかと言う事を考えてみるべきであるし、時代を超えた尊いモノの中に曇りの無い、何でも見通すことのできる力というものが含まれているのかどうかという問題を考えてみるべきである。




           ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
仏道の本筋を勉強していきますと、やっぱり一般社会にあんまり受け入れられない理解の仕方や行動を示すようなきらいがあるので、そういう事までよく自分で承知して行動しないと、うまく適用とか適合とかしなくなるきらいもあるんじゃないですか。

先生
いや、そういう事はないんですよ。というのはね、どんな人間社会でも宇宙の中の一部なんです。ですから宇宙の原則がわかっておるとどんな人間社会のどんなつまらない動きも全部読めるんですよ。

仏道を勉強することの意味の一つはこれなんです。人間が我利我利の立場で金儲けに血道を上げていても、仏道が身についていると、それらの人々がどんな原則で動いているかが見え見えに見えるんですよ。それが仏道の意味なんです。

だからそういう点では、仏道の立場を基準にして日常生活を生きていけば、自分の意思を主張しながら人とぶつからないという境地があるんです。これは非常に狭い幅の動きですけれども、

そういう厳密な非常に狭い範囲の動きをするためにやるのが仏道修行なんです。自分の意思を通しておきながら、周囲と摩擦を起こさないというのが仏道ですよ。それを狙わないと仏道修行の意味がないと、こういう事があると思います。

正法眼蔵 古鏡 31

雪峰義存禅師と玄沙師備禅師の問答に関連して道元禅師の注釈は続きます。

このように鏡というものは二枚ではないというふうに考えるべきではあるけれども、我々の心を象徴しているか、我々の体を象徴しているか、あるいは人間というものを象徴しているかは別として、そう言う時代を経た古鏡(永遠の意味を持った鏡)は我々として現に目の前にある。

またそれを果たして是か非かというふうな形で批判する事の出来る明鏡(くもりのない鏡)と言うモノも、現に具体的なモノとして、我々としてこの現実の世界に存在している。

その点で我々人間というものを鏡に例えた場合に、時代を超えた非常に価値のある鏡という風に例えることも出来るし、また善悪をはっきり見ることが出来る様なくもりの無い鏡という風な譬えも出来るという証拠、印というモノは、雪峰義存禅師と玄沙師備禅師とが交わされた問答によって知る事が出来る。

古鏡と明鏡と言う言葉で二つのものがあると言っているのではない。本質と外見とそういう形で結局は一つのものだけれども、別々に分けて考える事も出来るという立場で理解するべきである。



              ―西嶋先生の話―
  --つづき

中身というものと外見というものは使い分けることが出来ると普通は考えておるけれども、仏教思想ではそう考えない。どうしても中身と外側とは一つのものだからいつかは全て出てわかってしまう。

外側だけを見場がいいようにしておけば何とかなるという事が中々通らない。そのことに関して、性と相が一致している「性相不二」という言葉がある。これは仏教的な考え方の一つの非常に基本的な考え方である。

人によっては、身なりというものを非常にきれいにする人もいる。それじゃ身なりのいい人は中身がいいかというと中身に自信がないと身なりをよくしようとする人も割合いる。だから、あんまり身なりがよすぎると「これは中身はどうかな」と思って、逆に心配になってくるという風な問題もあるわけです。まあそういうことは余談でありますが・・・。

フリーエリア

「正法眼蔵」は仏道を勉強する上において「なぜ坐禅をやらなければならないか」という事を事細かに疑問の余地のない形で詳細を述べておられる。だから「正法眼蔵」を読んで仏道の理論的な側面を勉強しながら自分自身で坐禅をやるならば、仏道修行においては欠けているところはない。―愚道和夫老師―

プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
70代女性。自営業。自宅で毎日朝晩坐禅をしています。愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」を毎日ブログで紹介しています。愚道和夫老師より平成13年「授戒」平成20年「嗣書」    

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