FC2ブログ
トップページ | 全エントリー一覧 | RSS購読

正法眼蔵 三十七品菩提分法 43

三十七種類の修行法(四念住、四正断、四神足、五根、五力、七等覚支、八正道支)

八正道支(1・正見道支 2・正思惟道支 3・正語道支 4・正業道支 5・正命道支 6・正精進道支 7・正念道支 8・正定道支)


八正道支の「5・正命道支」について道元禅師が注釈されます。
正命道支(正しい生活を通して真実に到達する修行法)というのは、朝早く朝食をとり、お昼には昼食をとるというふうな規則正しい生活の事であり、場所はどこであろうとも坐禅をすることであり、仏道の教えを直接人々に伝えることである。

長年の仏道修行を積んだ趙州従諗禅師の教団においてさえ、総員は二十人に足りなかったと言われているが、これこそ趙州従諗禅師や弟子の方々がいかに正しい生活をしていたかという具体的な現れである。

また薬山惟儼禅師の教団においては総員が十名に足りなかったと言われている。しかしながら、十人に足りない僅かな人員が一所懸命坐禅をし仏道修行をされたという事は、これこそ正しい生活の最も重要な部分である。

また汾陽善昭禅師の教団においては、七、八人の人数しかいなかったと言われているけれども、これはまさに正しい生活が行われていたことを意味する。

なぜその様に言えるかというと、これらの趙州従諗禅師、薬山惟儼禅師、汾陽善昭禅師の教団においては、様々な誤った生活手段を離れて生活が行われていたからである。

釈尊が言われた。「理論や文字だけを通して仏教を学んでいこうとする声聞と呼ばれる人々がいるけれども、それらの人々はまだ正しい生活の仕方を得ていない」と。この様な釈尊の言葉から考えてくるならば、声聞と呼ばれる人々の教えや体験はまだ本当の正しい生活態度とは言えないのである。

ところが最近、凡庸な人々が、「声聞と菩薩(実践を通して仏道修行をしていく人々)とを区別してはならない。この両者の行儀作法や戒律に関してはいずれも使用すべきである」と主張し、仏道の修行の仕方に関連して、声聞の修行の仕方を取り上げて菩薩の修行の仕方におけるその行儀作法や動作をいいとか悪いとかと言って批判している。



              ―西嶋先生の話―

我々は坐禅を通して仏道を勉強しています。 仏道は釈尊が説かれた生き方と言う事でもある。 ところが釈尊の説かれた生き方と世間の生き方が必ずしも全部同じではないと言う事が言えるのであって、その点で仏教は釈尊の説かれた生き方と世間の生き方の違いをはっきり意識しておるわけです。

「それがどんなふうに違うか」と考えてみますと、仏道修行をしておっても当然食事はする。 手洗いにも行くし、夜になれば寝る。 そういう点では普通の生活と全く変わらない。 それでは全く同じかと言うと違う面がある。 例えばどういう点が違うかと言うと,人間の価値の評価について考えてみると世間における人間の評価は人と人との比較でやる。

たとえば政治家の世界でいえば、市会議員より県会議員、県会議員より国会議員、国会議員より大臣、大臣より総理大臣のほうが偉いと言うふうに、段階的に比較の上でどっちが偉いかという事をすぐ考える。 それから勲章というものを欲しがる向きになると無性に欲しいらしい。

だから無理をしてあっちこっちに頼みこんで、「ぜひ推薦してくれ」と無理やりにもらうと言う事がかなりある。 その勲章は皆さんかなり苦労に苦労を重ねた結果獲得した勲章と言う事になるわけであって、 獲得した勲章にも偉い色があればそれより下の色もあるということで、勲章の例をとってみても比較の問題が必ずある。

ところが仏道における人間の偉さというものは、人との比較で偉いとか偉くないとかと言う事が出てくるわけではない。 我々が坐禅をしている時には宇宙の中で坐禅をしておるという事実が実在するのであって、人との比較によって偉いとか偉くないとかではなくて、宇宙の中における一人の人間が持っている価値が坐禅という姿の中に出てくる。

だから仏道が問題にするのは世間的な比較ではなくて、自分自身の問題、自分自身がどうやるか、自分自身の動き方の問題、生き方の問題と言う事になるわけです。 沢木老師はよく「天地一杯」と言う事を言われた。仏道に基準を置いた人間の生き方というものは「、天地一杯の生き方だ」とよく言われた。

「法」とは、宇宙そのものと言う事、あるいは宇宙の秩序と言う事であるとすれば、仏道の生き方というのは宇宙を基準にして生きる生き方という事になる。だから、人との比較で偉いとか偉くないとかと言う事を乗り越えた問題である。人間の偉さをとらえてみても、単なる他の人との比較ではなしに自分自身が絶対の価値を持っている事が仏道の信仰である。

釈尊が「天上天下唯我独尊」と言われた。天地の間に自分はたった一人で絶対の価値を持っておるんだと言われたけれども、それは釈尊だけの問題ではない。我々人間すべてが「天上天下唯我独尊」、それぞれが自分自身の絶対の価値をもっている。そのことに気ずいた人生と気ずかない人生とがあるわけです。

仏道修行を通じて自分自身がいかに尊いものであるかと言う事に気がつくと、自分自身の人生を粗末にする事が出来なくなる。ところが自分自身がいかに尊いものであるかと言う事に気づかないと、色々な考え方で生きようかとするから自分自身の人生を粗末にするおそれがある。

そういう点では仏道というのは、自分自身の絶対の価値というものをシッカリとつかまえて、それを基準にして生きていくと言う生き方、そういう捉え方もできようかと考えるわけです。


ご訪問ありがとうございます。

ランキングに参加しています。応援クリックお願いします。


人気ブログランキング                                 

正法眼蔵 三十七品菩提分法 42

三十七種類の修行法(四念住、四正断、四神足、五根、五力、七等覚支、八正道支)

八正道支(1・正見道支 2・正思惟道支 3・正語道支 4・正業道支 5・正命道支 6・正精進道支 7・正念道支 8・正定道支)

八正道支の「4・正業道支」について。
正業道支(正しい行いによって真実に到達する修行法)というのは、道元禅師の注釈は「出家して真実を実践していくことである」から始まり説明はかなり長く続きます。道元禅師は形の上での「出家」を非常に重要視され出家人については相当厳しいです。

たとえば、僧侶と自称している人が寺院生活を維持していくために、俗世間で活躍している財産的にも豊かな人々や社会的にも権力を持っている人々の庇護を受け、犬と同じような状態になった人もあるという個所もあります。

※西嶋先生の「正法眼蔵提唱録」では、正業道支についても丁寧に全文講義されていますが、このブログでは省略させていただきます。  ―幽村芳春—
               
     


           ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
道元禅師は「弁道話」の巻では、坐禅さえやれば仏(真実を得た人)と言い、私どもは非常についてきやすかったのですが、この「正業道支」では出家至上主義にがらりと変わったかのように考えられまして、どうしてこう急に思想の変化かと思うくらいに感じたんです。

先生
仏教思想というのは、観念的に考えた上の二者択一ではないんです。AとBがあって、AかBかどっちかだという考え方では仏道の思想は成り立たないんです。我々はもっと厳しい現実の中におかれているんだから、現実の問題としてどういう道を選ぶかという、一日一日の問題だし、瞬間瞬間の問題だという事を道元禅師は常に言っておられた。

それが釈尊の教えでもあるわけです。ですから、道元禅師が出家を礼賛されたという事はもう疑問の余地がないわけで、この原則が崩れるという事は決してないんですが、それと同時に出家とか在家とかというふうに二つを並べてどっちを取るかという風な単純な選択ではない。

在家と出家と二つのものがあって、その中間に我々の人生が置かれているんだから、今日はどうか、明日はどうかという風な瞬間瞬間のあり方の問題でしかないというのが道元禅師の主張だと、こういう風に見ていいと思います。

質問
「正業道支」に出ているのは、みんな寺院にいる人たちばかりの例証で、寺院にいない個人の話が出てこないのですが・・・。先生は家庭生活を離れるか俗世間の生活を離れるかどうかの方が大事なのではなくて、名利の心があるかないかの方がはるかに問題としては大事だと言われますが、それじゃあ在家の例え話でもあればいいんですけど・・・。

先生
過去においてそれがあったかどうかという事は疑問です。なぜそういうことが言えるかというと今日ほど恵まれている社会というものは今だかつてあった事がないんですよ。人類が月に行ける様な力を持ちえた時代は人類の過去にないんですよ。

そのことは今日の時代、我々が与えられている恵まれた生活からするならば、寺院の中で生活しなくても仏道修行は可能ではなかろうかという状態が生れつつあるという事、これは言えると思います。

今日、俸給生活している人の時間の余裕と、江戸時代、あるいは明治時代でもそうですよ、当時の農業をやっている人々の時間の余裕と比較して見たら、事情というものは非常によくわかる。だから私は決して現代風に解釈をするという事ではなしに、経済情勢が変わり社会情勢が変わるならば、どう対処するかという対処の仕方もおのずから違ってくるわけです。

だから一つはっきり言えることは、我々が生きている以上に恵まれた社会に生きた人類というものは過去になかったという事、過去において我々が生きている時代と同じような恵まれた社会に生きている仏道修行者は一人もいなかったという事、このことは我々が今日仏道修行をしていく上において非常に考えなきゃならん問題。

この様に恵まれた社会情勢の中で、生活条件の中で、どのような仏道修行が出来るかという事に我々の非常に大きな問題があるという事、そのことは言えると思います。だからそういう点では、仏道修行と言えども、時代の状況に応じ生産力の発達に応じて少しずつ事情が変わってくるわけです。だからその事情が変わったところでどういう対処をするかという事に、我々の一つの問題であると、こういう事は言えると思います。

質問
過去においては出家(寺院に入る)しかなかったと・・・。

先生
それしか仏道修行の機会がありえなかったと言い得ると思います。ですから寺院生活をされた方というのは、その当時の社会では非常に恵まれた方ですよ。そういう恵まれた状況でないと仏道修行が当時はできなかったと言えると思います。

それと同時に、我々の今生きている時代ほど仏道修行の面で恵まれた境涯におかれている人間は過去には一人もいなかったという事、これは我々がはっきり肝に銘じて考えておくべき問題だと言えると思います。


ご訪問ありがとうございます。

ランキングに参加しています。応援クリックお願いします。


人気ブログランキング             

正法眼蔵 三十七品菩提分法 41

三十七種類の修行法(四念住、四正断、四神足、五根、五力、七等覚支、八正道支)

八正道支(1・正見道支 2・正思惟道支 3・正語道支 4・正業道支 5・正命道支 6・正精進道支 7・正念道支 8・正定道支)


八正道支の「3・正語道支」について道元禅師が注釈されます。
正語道支(正しい言葉を通して真実に到達する修行法)とは、自分が啞(おし)と同じように仮に黙っていても、決して啞(おし)ではないという状態である。沢山の人々の中に啞というものがいた場合に、その啞は何もしゃべらないという状態が普通である。

坐禅堂の中でたくさんの人々が黙って坐禅をしているからと言って、啞(ものが言えない)という事ではない。坐禅をしている状態とは、自分以外に理想的な人格が別にあって早くそれになりたいという焦りで坐っているわけではない。また自分自身に重点を置いて、二つも三つも自分の心が重なっているような状態で坐禅をしているわけでもない。

自分の口を坐禅している目の前の壁にかけて、何も言わずに坐っていることである。つまり坐禅をしている事実そのものが「正語道支」である。


 
              ―西嶋先生の話―
       
「正法眼蔵」と言う本は非常にありがたい本で、我々の日常生活に関するごく細かい問題についても、どこかの箇所でその回答が与えられておると言う事があるわけです。 だからこの本を読んで隅から隅まで意味が取れるようになると、一生、この「正法眼蔵」さえあればどんな問題でもけりが付くと言う事があるわけです。

だからその点では、難しい本ではあるけれどもこの本を読みこなすということは、一人一人の人生にとって非常に大きな意味がある。 我々の人生は、いくら長く生きても百年前後、大抵数十年で終わりになる。 と言う事は我々に与えられている時間というものは、無限に与えられてはいない。

割り当てられた時間はせいぜい百年。 その割り当てられた百年の時間と言うのは非常に貴重。 それをどう過ごすかと言う事がかなり大事な問題になるわけです。 我々は普通、その人生に対して波乱を求める。 非常にいい事をこいねがう。 ところが、その非常にいいことをこいねがうと人生必ず裏目がある。 そうすると、いいことがあったり悪いことがあったりする。 波乱万丈の人生が望ましい人生であると大抵の人は考えている。

しかし仏道ではそういう考え方をしない。 あまり高い波もないように、あまり低い波もないように、海の水平線のように、高低のないきわめて静かな一直線の人生が望ましいと、そういう考え方である。 仏道では波乱万丈の人生は求めないけれども、普通はそういう考え方はしない。

簡単な例をいえば、この世の中には色々な楽しみがある。高尚な楽しみもあればそうでもない楽しみもある。金が欲しい、財力が欲しいという事で、各人一所懸命努力するわけだけれども、うっかりすると競馬、競輪というふうなものを当てにしがちである。そうして馬券なり車券なりを買ってレ-スが終わるまでは、自分の買った馬券が必ず来ると思っている。

ハラハラワクワク「そのうち来る」「あ、やっぱり来なかった」と言う事で、悔しがって馬券をちぎって腹を立てる。この世の中で競輪とか競馬等の最大の名人がいる。 その名人は、国家・県・市・主催している団体。これは売上の何割かの金は、ゴッソリ自分の懐へ入れてしまう。

あとの残ったニ、三割の金を分けあって、「そのうち来る「「あ、やっぱり来なかった」といって争うわけだから、どんな競馬や競輪の名人でも国や県には勝てない。そういう仕組みになっているにもかかわらず、自分の買った券で何とかして大穴を当てようと儚い望みを持ってやっているわけです。

えてして世の中には、そういう波乱を求めてその結果、裏目に出るという場合が多い。だからそういう人の帰りの様子を見ると、みんな酒に酔っ払っている。勝った人も負けた人も全員酒に酔っ払って、電車の中でも「あれはこれでよかった」「もうちょっとのとこだった」と言うような、残念な話ばかりして帰っていく。

そういう浮かれた気持ちも人生が楽しいかも知れないが、浮かれた気持ちの裏側には必ず マイナスがある。 家に帰ると、今朝持って行った金をみんなスッてきたと言う事で文句を言われる。 派手に派手にという努力が、地味に地味にという方に否応なしに行ってしまうという事もある。

そうすると我々は本当に腹を据えて、どういう生き方をしたらいいかと言う事を常に考えていかざるを得ない。 人生わずか数十年、せいぜい百年の割り当てをどう生きるかと言う事、これはかなり大切な問題です。 そういう問題についてじっくりと考えておれば、五十、六十才になった時に自分の積み上げた人生が非常に幸福なものとして戻ってくる。

だからそういう点では、どういう生き方をするかと言う事が我々の生活にとってかなり大切です。 したがって「正法眼蔵」のような本を勉強していくと言う事が、一人一人の人生にとってかなり 大切な事というふうに考えざるをえない。


ご訪問ありがとうございます。

ランキングに参加しています。応援クリックお願いします。


人気ブログランキング            

ブログ画面が元に戻りました。

何日か悪戦苦闘。FC2に問い合わせたところ、ユーザーサポートさんから丁寧な回答を頂きました。専門家はさすが凄いですね。元の画面に戻りました。また「正法眼蔵」をブログで紹介していきます。よろしくお願いします。

ブログ画面が変になってしまいました。

ブログの画面が二重になっていて見ずらいと思います。ブログを7年以上やっていて初めての事でどうしていいか困っています。fc2ブログに問い合わせていますので画面が元に戻ったらまた「正法眼蔵」を紹介したいと思います。カテゴリ「正法眼蔵」 に「弁道話」の巻から始まり(1585)の記事がありますので読んでいただけたら幸いです。

暫くは「正法眼蔵」から離れて日常生活の事を書きます。今日は「母の日」都内住む娘夫婦からは「カーネ-ション」県南に住む息子夫婦からは「高級耳かき」が送られてきました。コロナで会えませんが緊急事態宣言がとけたら遊びに行きたいと思つてます。



ご訪問ありがとうございます。

ランキングに参加しています。応援クリックお願いします。


人気ブログランキング             

フリーエリア

ご訪問ありがとうございます。 「正法眼蔵」は仏道を勉強する上において「なぜ坐禅をやらなければならないか」という事を事細かに疑問の余地のない形で詳細を述べておられる。だから「正法眼蔵」を読んで仏道の理論的な側面を勉強しながら自分自身で坐禅をやるならば、仏道修行においては欠けているところはない。―愚道和夫老師―

プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
70代女性。自営業。自宅で毎日朝晩坐禅をしています。愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」をブログで紹介しています。老師より平成13年「授戒」平成20年「嗣書」    

最近の記事

リンク

最近のコメント

カテゴリ

アクセスカウンタ-