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正法眼蔵 心不可得・前 8

徳山禅師と餅売り老婆の問答について道元禅師が注釈されます。

ここで私(道元)が試しに二人に代わって言うべき言葉を言って見せよう。まず徳山禅師は老婆の質問に対して「そのような事を言うならば、お前は私に餅を売らんでもよろしい」と。この程度の事をもし徳山禅師が言う事が出来たならば、かなり出来た人と言う事が出来よう。

また老婆に対して徳山禅師が次のような質問をするかもしれない。「過去・現在・未来のいずれの時間においても、心というものを掴む事はできないが、いま餅を食べてそれによって心というものをはっきりさせようとするならば「どの心をハッキリさせようとするのか」と。

徳山禅師がこのように質問された場合に老婆はすぐさま徳山禅師に対して言うべきである。 「和尚は餅が何らかの心をハッキリさせる事はできないという事だけはわかっているけれども、心があって初めて餅の意味があるという事がわかっていないし、心もまた独自の存在であって餅のご厄介にならないという事情が分かっていない」と。

この様に老婆が言った場合に徳山禅師はおそらく疑問を起こすであろう。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
「正師」という言葉は正しい事を教える師匠という意味でしょうが、「良師」という言葉はお使いにならないんですか。

先生
仏道というのは善悪とかという考え方よりも「正しいか、正しくないか」という事を問題にする教えという事は言えるかもしれませんね。その事はどういうことかと言うと、正しいということは、そのタイミングがいいとか、周囲の状況にあっているとかという風な事も問題になるわけです。

善とか悪とかというと、頭の中で考えてこれは善いこと、これは悪い事という風に空に考えることが出来るわけだけれども、正しいとなると、その時間、その場所において適合しているかどうかと言う様な事が問題になる。

仏道というのは現実的な教えだから、空にこれは正しい事、これは正しくない事というよりも、もっと具体的に適合するかどうかという考え方をするから、正しいとか、正しくないとかということがわりあい議論の中心になる。そういう関係があると思いますね。

※雑記
今日はあまり暑くなく過ごしやすかったです。雨が降りそうで降らないので鉢植えの花に水やりをしました。これから柿や栗の実が美味し季節になります。


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正法眼蔵 心不可得・前 7

徳山禅師と餅売り老婆の問答について道元禅師が注釈されます。

大宋国(中国)における僧侶達が、徳山禅師が老婆に対して答える事ができなかった事をただ訳もわからずに笑い、老婆が途轍もなくよく出来たと誉める事は非常に頼りない話である、非常に愚劣な話である。

徳山禅師がしっかりしていなかった事はハッキリしているけれども、老婆の方もハッキリしていたかどうかそれはわからない。なぜかと言えば、老婆を疑うだけの理由がないわけではない。

この老婆と徳山禅師とが出合い、その徳山禅師が何も言うことが出来なかった際に老婆は徳山禅師に対して 「和尚は何も言う事が出来ない。 それならこの私に同じ質問をしたらよろしい。そしたら私が和尚のために本当のことを教えてやりましょう」と 。

老婆がこの様に言ってそれに対する徳山禅師から質問を受けた後、徳山禅師に向かって言 った言葉が妥当であるならば、そこで始めて老婆がまさに本物であったと言う事がはっきりす るであろう。

老婆は徳山禅師に質問こそしたけれども、自分の考えを言うことまではしていなかった。昔から仏道に関する話をずっと勉強してくると、かつて一つも真実の言葉を口にしたことのない人を真実を得た人ということは未だかつてあったためしがない。

自分自身で「悟った、悟った」と言って見ても、何の益も無い事はかつての 徳山禅師の様子を見ていればそれでわかる。また何の言葉も発してない人を真実を得た人として認めることが出来ない事は、この老婆の例によって知る事が出来る。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
道元禅師は徳山禅師のことを「文字を追い求める事によって仏教を勉強する人々の末流にすぎなかった」と批評しています。他人の色々な事が気になる人はノイロ-ゼ系統の神経症を持っている人だと思うんです。道元禅師も神経症なのかなという感想を持ちました。

本当に只管打坐であるならば、その様な事を言わなくていいような気がするんですが。どっかの山の中にこもって三十年もいたという人もいますけれども、道元禅師はそうでもないようだし、それでこういう「心不可得」という文章をお書きになっている。この辺の真意はどこにあるんだろうかなと・・・。

先生
それは道元禅師という方は仏教思想とはこういう思想だという事についての明確な判断があるんです。仏教思想の一つの特徴は単なる理論ではない、むしろ体の状態、心の状態、現実そのものが仏道なんだという思想であるわけです。

だから経典を読んだり説法を聞いたりして頭の中だけで仏教を理解しようとする人々に対し、それは仏教とは無関係という事を主張しておられる。ここで「徳山禅師は文字を追い求める事によって仏教を勉強する人々の末流にすぎなかった」と言っておられるのは、仏教の実体には爪の先ほども触れていなかったという判断です。これが一つ。

それから「只管打坐」という事も仏教哲学を道元禅師の立場から見られた場合の主張なんだけれども、今の問題と全く同じ事であって、経典を読んで「ああ、わかった、わかった」という事では仏教というものとは全然関係がないという主張なんです。

仏道とは何かといえば、足を組み、手を組み、背筋を伸ばして坐っている状態そのものという思想があって、只管打坐というものも気になるとか気にならんとかと言う事ではなしに、仏教思想と言うのはこれだという事の明確な主張ですよ。

だから只管打坐というのは道元禅師が看板に書いて、仏教の本質はこれだという事を札に書いてぶら下げたようなもんです。気になるとか気にならんとかという事よりも、仏道の実体はこれだという主張を四つの字に書いて「只管打坐」と言われたというそういう問題です。

※雑記
「駐車場の彼岸花が綺麗に咲いてますね。隣から毎日見てます。彼岸花を見ると秋だなと・・・」近所の一人暮らしの女性が言う。まさに盛りで「ここにいるよ見て、ここにいるよ見て」と彼岸花が言っているようです。彼岸花は亡くなった人を思い出させてくれます。


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正法眼蔵 心不可得・前 6

徳山禅師と餅売り老婆の問答について道元禅師が注釈されます。

この老婆と徳山禅師とが対面した説話をよくよく考えて見ると、その時、徳山禅師が真実というものをまだはっきり掴んでいなかったと言う事は、現在の時点からでもはっきりわかるところである。竜澤の崇信禅師に出合ってそこで修行をした訳であるけれども、修行をした後でもやはり同じようにこの老婆を恐れるような境地であったに違いない。

せっかく竜澤の崇信禅師に弟子入りして後も、やはり徳山禅師は仏道を学ぶ点においては遅れていて、体験を乗り越える、体験を超越するという境地の真実を体得した永遠の仏というわけにはいかない。

徳山禅師の相手をした老婆も徳山禅師の口をふさいで何も言う事が出来ない様にしてしまったけれども、しかしながらこの様な話があったからと言って、その老婆が本当に真実がわかっていた人かどうかはまだはっきりとは断定できない。

なぜ断定できないかというと、心は掴む事が出来ないという言葉を聞いて、その解釈として心というものは掴むことが出来ないもの、心というものはあるはずがないのというふうにばかり考えて、この様な問いを徳山禅師に対して発した。

徳山禅師が仏道の上で一人前になっていたならば、この老婆を見抜いてそれを打ち破るだけの力量があったであろう。徳山禅師が逆に老婆に質問を発して、その結果老婆が本物であるかどうかという事を見ぬく力があったならば、老婆が本当に真実を得た人かどうかはっきりしたであろう。

この問答だけから見ると、徳山禅師が本当に徳山禅師その人なっていたかという事も考えにくいので、老婆が真実を得た人であったかどうかという事もまだはっきりしない。このように徳山禅師も未熟ではあったけれども、老婆がはたして真実に達していたかどうかと言う事も簡単には断定できない。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
ある宗教関係の人と話をした時に心の中で思った事は行った事と同じだとか、心であいつ死んでしまえと思えば人殺しと同じだとか言うんですが、仏道の立場からどの様に理解するのが正しいんでしょうか。

先生
頭の中で考えた事と行いとが同じだと言うのは仏教思想じゃないです。他の宗教では心の動きを重要視するから、頭の中で考えた事は実行した事だという捉え方をするんです。これの典型的な例は聖書の中に女性を見てやましい心を起こしたならば実行した事と同じだと言う思想があるんですよ。

しかし仏教ではそう考えません。気持ちの上で起こすのと、手と足を動かして実行行為に及ぶのとは違うと言う考え方です。それが仏教思想の救いですよ。
    
他の宗教思想のように頭で考えたら全部悪い事をしているんだと言うふうになったら、人間にとって逃げ場がないんですよ。そんなものではない、人間の行いを中心にしてやるかやらないかが重要なんだというところに仏教思想の特徴がある。

ただ明治維新以降、日本の仏教学もキリスト教の考え方を中心にして仏教を理解したから、精神的に何らかの想念が生まれれば、それは実行した事と同じだと言うけれども、それはキリスト教的解釈ですよ。仏教ではそういう考え方じゃないと言う事が基本的な捉え方です。

質問
ちょっと皮肉な表現ですが、もし心で思った事が実行した事と同じだとすれば、例えば毎日坐禅をするというのも、実際にしていなくても思っていればした事になるんで、非常に便利だなあと思ったんですけど。(笑)

先生
いや、そんな事はありえない。(笑)仏教思想はその点では実行する事に救いがあると言う考え方です。

※雑記
最近「墓じまい」とか「無縁墓」とかが話題になってます。特に公営墓地の荒れ放題は何が原因なのかと今朝NHKが放送していた。お墓は特別なものとして思う必要はないと思います。あまり深刻に考えず、今生きている人の負担にならない様に現実的に処理すればいいと思っています。私はお墓は骨置き場と思っています。


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正法眼蔵 心不可得・前 5

道元禅師の注釈は続きます。

数百巻の書籍の解釈をするところの最高権威者とも言われ、また数十年にわたって「金剛経」を講じてきた僧侶が身なりの粗末な老婆の質問を受けて、その質問に返事ができなかった事は非常に残念な事ではなかろうか。

正しい師匠に出会って、正しい師匠から教えを引き継いで、正しい釈尊の教えを聞いた事のある人と、まだ正しい教えを聞かず、まだ正しい師匠と出合った事のない人とでは、その内容が非常に異なっているところから、この様な事態が生まれたのである。

徳山禅師はこの時に初めて、「画にかいた餅は腹の足しにならないものだ」と言った。その後、この徳山禅師は竜澤の崇信禅師の法を継いだと言われている。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
熟語で「画餅」(がびょう)という言葉がございますね、その起源はここにあるんでございますか。

先生
ええ、こことも関係があります。それから「正法眼蔵」の中では画餅という巻がありますしね。それからもう一つ「画餅」という言葉が出てくるのは、智閑禅師のいわゆる小石が当たった音を聞いて悟りを開かれたという話のところで、

その前に師匠から「本から持ってきた言葉じゃいかん。自分自身の言葉で仏道の究極のところを言ってみろ」と言う質問を受けてどうしても答えが出来なかった。それで智閑禅師は勉強家でたくさんの本を持っていたわけだけれども、「画に描いた餅は飢えをふさぐに足りない」と言って

持っていた本を全部焼いちゃったという場面がある。そこにも「画餅」というのが出てくるわけですよね。だから、画に描いた餅というのは、ここの場所とそれから香厳智閑禅師とその二つのところに出てくる。

質問
出典はがそこにあるということ・・・。

先生
はい。 

※雑記
彼岸花が咲き始めました。白の花の方が元気で、赤い花の方はまだ蕾です。数を数えたら60本くらいあります。まだこれから芽を出す花もあればいいなーっと思ったりしています。


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正法眼蔵 心不可得・前 4

道元禅師の注釈は続きます。

徳山禅師はある時、釈尊以来代々の祖師方によって受け継がれてきたところの最高の教えがあると聞き、「金剛経」について自分以上の注釈をした人がいるはずがないと腹を立てた。 怒りを抑える事が出来ず経典や注釈書をたずさえて山川をわたって旅して行った。

そしてたまたま竜澤と言う場所における崇信禅師の仏教教団の事を知り、その教団に行って勉強しようと思いそこに向かった。 その旅の途中で疲れて一休みしていた。その時一人りの老婆が来合わせて同じように一休みした。

老婆に徳山禅師言う:お前さんは、どういう人かね。

老婆言う:自分は、餅売りの老婆です。

徳山禅師言うそれじゃ、わしは餅を食べたいから売ってくれないか。

老婆言う:和尚さんは餅を買って、いったい何にしなさるのです。

徳山禅師言う:餅を買ってそれを食べて、心の疲れを癒そうと思う。

老婆言う:和尚さん、あなたは大きな荷物を持っておられるようだけれども、それは一体何ですか。

徳山禅師言う:お前は知らないのか。わしは周と言う名の金剛経に関する権威で、これは金剛経の注釈書である。

老婆言う:和尚にこの老婆が一つ質問があるのですが、許していただけるでしょうか。

徳山禅師言う:よし、質問を許してやろう。お前はどんな事でも構わんから遠慮なく質問せよ。

老婆言う:自分はかつて金剛経の説法を聞いたが、その中で言うには過去心不可得・現在心不可得・未来心不可得と聞いていますが、その過去も現在も未来も捉まえる事の出来ない心のどれを持って来て、和尚は餅を食べぼんやりした心を直されようとするのか。

そんな心というものはどこにもない筈ではございませんか。和尚がこの質問に答えられるなら餅を売ってあげましょう。 しかし気のきいた返事がないようでしたら餅を売るわけにはまいりません。

徳山禅師:・・・・・

徳山禅師(周金剛王)は呆然としてしまって、何と答えていいのかさっぱりわからなかった。そこで老婆は袖を払ってそのまま立ち去ってしまった。とうとう餅を徳山禅師に売らなかった。



              ー西嶋先生の話ー
    ーーつづき

苦・集・滅・道という四つの考え方を釈尊はお説きになった。この考え方は非常に単純な考え方でありますけれども、人類が持っている悩みの解決には絶対の意味を持っているという事が言えようかと思います。

社会生活の中でも名誉だけを気にして、人の評判だけを基準にして生きておるという人もあるわけでありますが、そういう人の生き方が本当の生き方かと言うとこれは中々疑問がある。

それから恥も外聞もなしに金さえ儲かればいいという考え方の生き方が本当の人間の生き方かと言うと、これも大いに疑問があるわけで、釈尊はその中間に本当の生き方があるのだから、その中間の生き方を坐禅という修行法によって体で掴むむ事が大事だ言われたという事が言えようかと思うわけです。

この考え方は非常に簡単な考え方ではありますけれども、仏教という思想を理解する上に置いては絶対に必要だと感ずるわけでありまして、この教えをどういう形で人様に理解していただいたらいいかというのが我々がやっている事であり、今後も努力していく目標という事になろうかと思うわけです。

※雑記
今日は敬老の日。我家の東隣は80才の女性が一人暮らし、今朝彼女と立ち話をした。「一人で頑張りますね」と言うと、彼女が「うちの東隣の○○さんは88才になるけど一人で自分の事をやっている。手本にする人がいるから心強い」と言う。

そして我家の西隣は93才と83才の姉妹がやはり元気に二人で暮らしている。改めて町内を見回すと年をとっても元気な人が多い。昨日は認知症になった人や施設に入った人の話を知人や娘さんから聞いたばかりなのに・・・。人生色々ですね。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
70代女性。自営業。自宅で毎日朝晩坐禅をしています。愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」を毎日ブログで紹介しています。愚道和夫老師より平成13年「授戒」平成20年「嗣書」    

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