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正法眼蔵 仏性 25

五祖大満弘忍禅師と四祖大医道信禅師との問答について道元禅師の注釈は続きます。

ここで大医道信禅師が無仏性(仏性と言う名前をつけるのさえもったいないほど素晴らしい性質)と言われた事は、ほんのひと時のあいだ坐禅をやって、三昧の境地に入るという事が無仏性と言う言葉の意味だと言う学び方もある。

この様に考えてくると、仏性がしっかり発揮されている時を無仏性と言うのであろうか。仏性を得たいと思う気持ちを起こした時にすでに仏性が現れていると理解したらいいのであろうか。これらの事を質問すべきである。また主張すべきである。

この様な問題に関連しては、戸外に立っている柱にも質問させるべきである。戸外の柱にも質問してみるべきである。自分自身の中にあると言われている仏性にも質問をさせてみるべきである。

※西嶋先生解説
質問とか答えと言うのは普通は人間がやる事に決まっているわけです。ところが仏教の立場では人間の世界とその他の世界とにあまりけじめを認めない。だから、寺の戸外の柱にも質問させる事があるし、自分自身が戸外の柱に問いかけて質問する場合もある。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
私はお布施というのはお寺にお金を持っていく事だと思っていました。「布施」について教えてください。

先生
正法眼蔵には「むさぼらざるなり」とあります。お坊さんであろうと普通の人であろうと「はい、どうぞ」と言うのが、人間の普通の気持ちのあり方ですよ。人に物をあげようというのは人間の普通の状態です。ところが、ちょっと世相がずれてくるとそうはいかない。

人のものを取ってでも生きなくてはならないと言う考え方もある。非常にくだらん話だけれども、電車の中でよく見かける風景に席の取り合いがある。自分が坐ってしまうと膝を大いに広げて、なるべく他の人が坐れないようにと努力している様なところがある。それは今の時代の世相ですけどね。

人間の本当の気持ちと言うのはそうではないですよ。すこしつめあって「もう一人どうぞ」と言うのが普通の人間のあり方。だから、そういう普通のあり方を「布施」というんです。「むさばらざるなり」とはそういう意味です。

なぜそういう事が必要かと言うと、自分のため自分のためという事で、人の幸福が自分の喜びにならない様な状態というのは人間のあり方としては不幸な事。普通、世間ではよくそういう例がありますよね。人にいい事があると悔しくてしょうがない。

「隣の不幸は鴨の味」と言う言葉が封建時代にあった。隣の家に何か不幸があると鴨の肉を食べたほどおいしいと言う。この言葉は非常に浅ましい話だけれども、実に人間の心理をうかがっておる。
                        つづく--


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正法眼蔵 仏性 24

五祖大満弘忍禅師と四祖大医道信禅師との問答について道元禅師の注釈は続きます。

大医道信禅師は大満弘忍禅師に対して「お前には仏性はない」と言われた。この言葉の意味は「お前は無仏性という性格を持っている。仏だ、仏でないというふうな表現を乗り越えた本質的なものを持っている」と別の表現の仕方で言われたのである。

ここで大医道信禅師言われた趣旨は、「お前は言葉では表現する事の出来ない、名前では呼べないところの誰かと言う事さえ言えない人間であって、具体的にお前はどういう人間だというふうに限定できない程大きな内容を具えている」と言われたに他ならない。

お前がどういう性格を持っているかと言う事は、お前のあり方そのものに任せるけれども、それを突き詰めて論ずるならば、仏性というつまらない名前で呼ぶ事のできない非常に大きな性質のものであり、それを無仏性と述べたまでである。そこで大いに勉強してみなければならない。

現在は一体どの様な時節であるから、大医道信禅師は大満弘忍禅師に対し「無仏性」と言われたのであろうか。大満弘忍禅師がもうすでに仏になるというその最初の段階に到達しているから無仏性と言われたのであろうか。とうの昔に仏になっていたのであるけれども、さらにますます努力を積み重ねていくと言う段階であればこそ無仏性と呼ばれたのであろうか。

仏と言う名前では表現できないほど偉大な性質を持っていると言われたのであろうか。常に様々なことに通達している事を七通、又は八達といわれるけれども、頭の中であれこれ考えてせっかくの理解を全部ふさいでしまうと言う事があってはならない。また、頭の中で何とか理解したいと思って、あちこち手探りで見つけ回る事もするべきではない。



            ―西嶋先生の話―

私は子供の頃、仏教と言う宗教は霊魂と言うものを信ずる宗教であり、それであればこそお葬式やお盆にはお経があげられるのだと考えていた。しかし驚いた事に道元禅師の書かれた「正法眼蔵」弁道話の巻を読んでみると、霊魂の不滅と言う考え方が否定されており下記のように言われた。
  
「かの霊性はこの身の減するとき、も抜けてかしこにうまるるゆゑに、ここに滅すとみゆれどもかしこの生あればながく減せずして常住なりといふなり、かの外道がみかくのごとし」

これは明らかに我々が死んだ後、魂だけが身体から脱け出して別の世界に生まれ、さらに魂だけが生き続けていくと言う考え方で、仏教が栄える以前に栄えていた波羅門の教えを奉ずる先尼等の考え方であって「仏教ではない」と言われている。


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正法眼蔵 仏性 23

五祖大満弘忍禅師と四祖大医道信禅師との問答について道元禅師の注釈は続きます。

大医道信禅師の質問に対して大満弘忍禅師が「自分の姓は仏性というものであります」と言う返事をされた。この大満弘忍禅師の答えがどういう意味を持っているかというと、具体的な本質というものは仏性と呼ばれます、と言う意味に他ならないし、我々が持っている本質的なものは言葉ではなかなか説明できないから、仮に仏と言う名前を付けているに過ぎないのである。

この具体的な本質と言うものが、単に言葉では表現できない何かと言われた時だけにつかまえ得るもの、理解できるものと言うわけにはいかない。具体的な本質という表現を仮にされるものがあったとしてもそれが具体的な本質的なものという言葉以上のもの、もっと本源的なもっと現実的なものと理解された時に仏性というものが具体的に現れてくるのである。

この様に考えてくると具体的な本質と言うものは言葉では表現できない何かであり、それを昔から仏と呼んでいるけれども、そういう仏という名前さえ超越したところのものであり、そういうものを乗り越えて具体的な現実として現れてくるのであって、しかも、それについては常に何らかの名前を便宜的につけて呼ばれている。

その様な形で便宜的につけられた名前が周という名前であったのである。しかしながら、こういう仮の名前というものも父親から受け継いだものでもなければ仏教界の指導者から受けたものでもない。母親から受けたものでもないし、はたでその本人を名が寝ている人々と同じ名前ということでもない。各人は各人の名前があり、それに伴って独自の本質がある。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
「正法眼蔵」においては死後の世界はないと・・・それなのに「天上の神々」とか出てくるのですが、この「天上の神々」とは具体的にはどういう風な・・・。

先生
これはですね、仏教が生まれる以前に天上界があって神々がおられるという信仰があったわけです。それに対する仏教の態度というものは、そういうものはでたらめという形で子供っぽい否定はされなかったと言う問題があるわけです。つまり過去において民衆が信仰していた神々というものを、全部仏教の守護神として仏教の中に取り入れるという事が行われたわけです。

ですから四天王であるとか、帝釈天であるとか、ああいう神々は全部仏教が生まれる以前から古代インドにおいて信じられていた神々であるわけです。で、そういうものを仏教信仰の守護神としてそのまま残された。

ではその天上界の神々というものをどういう風に理解したらいいのかという事になるわけですが、そういう神々というものは人間の頭で考える事ができるという事実があるわけです。

ですから実在する、実在しないという問題よりも、人間がそういう問題を考えた場合には神という存在も生まれてくるのであって、そういうものをあえて否定する必要 はないというのが、そういう神々に対する仏教の基本的な立場だと見ていいと思います。
   
ですからその点では、そういうものは存在しないという風にむきになって否定する必要もないし、そうかといって、そういうものは実在するんだから、それさえ頼りにしていれば人間は誰でも幸福になれるという考え方をするほど、そういう神々を重要視していないというのが仏教の立場だとみていいと思います。

そういう点で、天上の神々というふうなものを考えたり、それから神々ではないけれども、人間の頭の中で例えば龍など様々な生物も想像できるわけです。


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正法眼蔵 仏性 22

五祖大満弘忍禅師と四祖大医道信禅師との問答について道元禅師の注釈は続きます。

大医道信禅師が「お前の姓は一体何か」と言っておられるけれども、その「何」と言う言葉の意味は、言葉では表現する事のできない何かだというを言っているのであり、それは具体的な現実そのもの本質的なものを言っているのである。

その具体的な本質的なものを言い表そうとして、言葉では表現することのできない何かと言ったのである。これがここで問題にされているところの「お前の姓は何か」と言う事に関しての中身である。

言葉では表現できない何かというものは、具体的な本質的なものを問題にすればこそ、そういう表現が問題になってくるのであって、具体的な本質的なものというものを表現する能力が、言葉では表現できない何かと言う言葉の中に含まれている。

ここで五祖大満弘忍禅師と四祖大医道信禅師が取り上げたところの姓というものは、具体的な本質的なものであり言葉では表現する事のできない何かである。

このように我々に具わっている本質的なもの、言葉で表現できない何かというものは、安いよもぎのお茶を飲む場合にも、何のたれべえという名前が問題なのではなくて、自分自身が本質的にどういうものかと言うことが問題になる。また高価なお茶を飲む時にもやはりその本質とは何かという事が問題になるのである。

従って日常生活でお茶を飲んだりご飯を食べたりするときも、何のたれべえという名前が問題なのではなくて、人間としての本質が何かという事が問題になるのである。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
先生がよく言われる昭和20年8月15日を境にしてという事ですけど、軍国主義のころに「戦争はやっぱりよくない」と言うと、「お前は非国民」という事でひょっとしたら命が危ないと。そういう時は仏道の立場はどうなんですか。

先生
その点ではね、現実の状況で許される範囲の最大限の努力をするという事ですよ。だからその点では、当時の世相に逆らって刑務所に入って過ごすというのも一つの生き方だったかもしれませんけれども、そういう動きをした人々の考え方が本当に正しかったかと言うと、

終戦後にそういう考え方の人々の時代が来たわけですが、そうすると、そういう考え方が正しければ、今日、日教組の問題、学校暴力の問題、ロッキ-ド事件とか、そういう事件は起きなかったはずなんですよ。

そうすると戦前に「俺の考え方は正しい」というふうに確信して、検挙されて刑務所に入った態度というものが本当に正しかったのかどうかという事を、我々は考えてみる必要があるんですよ。だから真実を勉強する事が大事で、どんな時代でも正しさというものは残るんですよ。正しさというものは極端な言論の中にはないんです。

だから、戦前の社会情勢の中で「俺たちこそは正義の士だ」ということで、官憲に反対して、逃げ回って、捕縛されて、刑務所に入った人の生き方だけが本当に正しいのかどうかという点については、やっぱり考えなきゃならんものを持っているんですよ。

あの時代にはそういう動きが貴重だったかもしれない。ただ戦後になってその考え方が正しい考え方として現に適用しているかと言うと、これは中々その通りだというふうに言いにくい面があるわけですよ。

今度はいま行われている考え方が少し間違いだから、少しは修正しなきゃならないという事情も現に出てきておるんだという風に見ていいと思います。だからそういう点では、真実というものには実に微妙なその時代その時代に応じての動き方があるんですよ。

なぜ仏道を信じることを私が勧めるかと言うと、自分の信仰にしたがって徹底的に生きても不幸にならないという事ですよ。人間というのは幸福を求めなくちゃならん、幸福を求める義務があるんですよ。そのためには自分の持っている信念が正しくなければならない。

正しい信念に従って生きていくならば、自分の行いを制約する必要がないんですよ。戦争以前においても、必ずしも軍国主義の尻馬に乗って「そうだ、そうだ」と、時流に便乗する必要はないわけです。それと同時に唯物論思想に凝り固まって無理に刑務所に入る必要もないわけですよ。

どんな時代でも、一人の個人として立派にどういう時代でも生き抜いていけるだけの真実を仏道は持っているんですよ。私が仏道を皆さんに勧めるのは、仏道を中心にして徹底的に生きていくならば決して不幸はないということを確信しているから、皆さんに仏道をお話していると、そういう事があると思います。( 1984年8月30日提唱)


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正法眼蔵 仏性 21

五祖大満弘忍禅師と四祖大医道信禅師との問答について道元禅師が注釈されます。

この様に四祖と五祖との間で問答が行われたのであるが祖師方の言われた事を考えてみるに、四祖の大医道信禅師が五祖の大満弘忍禅師に、「おまえの性は何か」と問いかけをした事についてはその狙いとするところである。

昔の仏教の指導者がお互いに問答を交わした場合には「姓は何と言うか」と言う問いかけの他に「どこの国の人か」と言う問いかけで仏教に関する問答を行った例もある。ここでの趣旨とするところは「おまえの姓はこれこれと言うふうに断定する事のできない何かである」と言う形で、各人の持っている本来の性質と言うものを説いた事に他ならない。

従ってこれらの問答において「お前の姓は何というか」と問いかけた事は、別の見方からすれば「おまえの性質はこれこれと言う言葉では説明する事の出来ない何かである」と言う教えを与えた事である。

その事は南嶽懐譲禅師と大鑑慧能禅師との間で「自分も汚れなしと言う事を目標にしているし、お前も汚れなしと言う事を目標にしている」と交わされた問答と同じ様な意味を持っている。

四祖と五祖との問答においては五祖大満弘忍禅師が「自分には姓があります。しかしこの姓は普通の姓ではありません」と返事をした。ここで大満弘忍禅師が言われている事の意味は「存在と全く一つになった姓は普通の姓ではない」と言っておられるのである。

普通の姓、ごくあたりまえの誰でもが口にする姓はある事はあるけれども、それは仮の名前であって人間の本質を具体的に指摘しているものではない。つまりある事はあるけれども、それが本質をとらえた名前ではない。

※西嶋先生解説
沢木老師がよく人の名前の事を下足札の番号と言われた。名前というものはどういう本質かと言えば、下足札の番号だという。最近は銭湯に行く人が減ってきたからあまり経験がないと思うけれども、昔は銭湯に行くと下駄箱があって、そこに下駄を入れる大きな木の札をくれた。

木の札には番号が書いてある。だからそれが五番であろうと、六番であろうと、十番であろうと、、十八番であろうとそう大した意味はない。十番には絶対の意味があるけれども十五番には大した意味がないとか、十五番はいい番号だけれども二十番はだめだとかそんな事はない。どの番号を持ってもたまたまその番号のところに下駄を入れたというだけの事。

人間の名前というものもそういうもので、何のたれべえという風な名前はそう大した問題ではない。しかしながら、誰でもが持っておる共通の性質というものは、誰それが何と呼ばれるかというような事と重要さが違う。どう呼ばれるかという事と、どういう性質を持っておるかという事とは重要さが違う、という事がここで説かれておることの意味であります。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
道元禅師は人間が死んでから、善い事をすると人間に生れ、悪い事をすると地獄・餓鬼・畜生とかになるという事を言っているんですか。

先生
生まれ変わる事よりは人間というのは地獄に行くのはわけないんですよ。悪い事をすりゃすぐ地獄へ行くんです。だから「六道輪廻」というふうな思想も仏教の立場から見るならば、人間がどういう境涯に生きるかという事であって「輪廻転生」の考え方と直接結びつける必要はないというのが仏教の理解の仕方だとみていいと思います。

「輪廻転生」の思想というものをバラモンの教えの中では非常に強く主張したわけですけれども、それを修正されたのが釈尊の教えですから、釈尊は「六道輪廻」という考え方をもっと現実的に理解されたとみていいと思います。

※六道輪廻 について
一般的には「六道輪廻」は、生前の行為の善悪によって、死後に行き先が決まる六つの世界があり、霊魂は不滅で死後また生まれ変わるという解釈ですが、この六道輪廻は古代インドにおいて仏教が生まれる以前にバラモンが説き、

その六道輪廻からどう逃れるかというのがバラモンの教えの中心的な問題であり、仏教が広まり伝えられていくうちに、それ以前にあったバラモンの教えが仏教の教えの中に混同されて、六道輪廻の間違った考え方が入りこんでしまった。

仏教を理解する場合にすぐ六道輪廻と言うようなことが出て来ますが、仏教はをむしろ六道輪廻を否定した教えで仏教思想の考え方の中には六道輪廻の教えはなく、六道輪廻は信じるに足りないと釈尊は主張されました。

六道輪廻は私たち普通の人間が、日常生活の中で次々に経ていく境涯を言い、坐禅は何のためにするかと言うと、こういう六道輪廻から脱け出すためです。

1・地獄(思い通りにならないという事で苦しんでいる状態)
2・餓鬼(あれも欲しい、これが欲しいと、いつも欲望に悩まされて焦っている状態)
3・畜生(自分の欲しいものを何とかして得ようと、はたの迷惑も構わず、人を傷つけることも自分を傷つける事も構わずに、とにかく欲望を達成しようと恥も外聞もなく欲しいものを得ようとする状態)
4・阿修羅(畜生の状態が高じて、非常に気持ちが荒れて暴れまわる状態)
5・人間 (暴れまわると、エネルギ-が発散されて、少しは人並みになってくる状態)
6・天上(人並みになると、人間はすぐ自惚れて自分は神様だと思う状態)
我々は自惚れが原因で、また地獄に逆戻りするという六つの境涯を日常生活の中で繰り返していく。


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「正法眼蔵」は仏道を勉強する上において「なぜ坐禅をやらなければならないか」という事を事細かに疑問の余地のない形で詳細を述べておられる。だから「正法眼蔵」を読んで仏道の理論的な側面を勉強しながら自分自身で坐禅をやるならば、仏道修行においては欠けているところはない。―愚道和夫老師―

プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
70代女性。自営業。自宅で毎日朝晩坐禅をして、愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」を毎日ブログで紹介しています。愚道和夫老師より平成13年「授戒」平成20年「嗣書」    

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