正法眼蔵 四禅比丘 12
大宋国における嘉泰という年号の時代に正受という僧侶が「嘉泰普燈録」三十巻を編纂し皇帝に献上した。
「嘉泰普燈録」に言う。
孤山智円禅師は「自分の説いている教えというものは鼎(かなえ)の様なものであって、仏教と儒教と道教の三つの教えはその鼎の足の様なものである。その様な三本の足で立っているのであるから、一本が欠けても鼎はひっくりかえってしまう」と言われている。
私はかつてその孤山智円禅師の人柄を慕いその教えを検討してみたのであるが、そこで次のようなことが分かった。儒教がどの様な教えであるかというならば、孔子の説いた儒教の教えの中心は真心誠意と言えるし、老子の説いた道教の教えの中心は様々のわだかまりを持たない心であるということが言える。仏教の教えの中心は悟りを開くことである。
儒教では誠意と言い、道教では虚心といい、仏教では見性と言うけれども、この三つのものは名前は別々であるけれども、その本体は一つのものであって、その究極のところは何かと検討してみるとまさしくこの三つが一つの教えにまとまらないということはない。
―西嶋先生にある人が質問した―
質問
この間お彼岸でもあるもんですから「無量義経」を通読しました。釈尊が六年間菩提樹下で坐禅をしたということから始まりまして、四諦の教え、十二因縁、六波羅蜜を説いて最後に法座の上で大乗の教えを説き終わって「無量義」と名づくと言って、法座の上で坐禅をして三昧に入ったと言う結びでございますね。
そうするともう徹頭徹尾坐禅に徹しているということが「法華三部経」の最初の「無量義経」で書いてあるんです。それを「法華経」を主題に一所懸命仏教の運動をしている人が坐禅という事になぜ気がつかないかと私は実に不思議に思いました。「無量義」が一番大事だということは各宗派の方がおっしゃいますが、やっぱりまあ実行ということは大変なんでしょうか。
先生
その点では坐禅というものを知らないんではなしに、やってみた事はたいていの人があるわけですよ。そして30分も坐らせられると、もう5分ぐらいたつと「まだかなあ、まだかなあ」と思って時計を見だすわけですよ。それで「まだかなあ、まだかなあ」と思いながらも、他の人が静かにやっているから途中でやめるわけにはいかないということで、30分無理に無理を重ねて終わるわけですよね。そうすると「うわ-、こんな辛い事は二度とやるもんか」と言うのが大体の実感だと思います。
ですから坐禅というのは慣れてきますと、こんなに楽しいものはないわけですけれども、初めて無理にやらされたときには途轍もなく苦しいものです。それは何にも考えないでジ-ッと背骨を伸ばして坐っておるということが我々の普通の習慣にはないわけです。その普通の習慣にないことをやらされるわけですから、「このくらい苦しいものはない」と感じる人はたくさんいると思います。
そういう点で「坐禅とは苦しいもんだ」という印象が世間一般に流れていますから、「あんな苦しいものをやらなければ仏道修行が達成できないんであればとても御免こうむる」と。そうすると「もう少しやさしいところで何とか勘弁してもらえないか」という考え方が出てくるのが人情だと思います。
で、そういうことの積み重ねが今日の仏教界の現状ではなかろうかと思います。ですからたいていの人は坐禅はとても苦しくて、普段やれないもんだと思ってるわけですが実際にやってみると必ずしもそういうものではないわけです。けれども実際にやってみて、ある程度慣れて来て坐禅というものがわかってくるというところまでいかなかった世間一般の人が行っていないというのが実情だと思います。
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「嘉泰普燈録」に言う。
孤山智円禅師は「自分の説いている教えというものは鼎(かなえ)の様なものであって、仏教と儒教と道教の三つの教えはその鼎の足の様なものである。その様な三本の足で立っているのであるから、一本が欠けても鼎はひっくりかえってしまう」と言われている。
私はかつてその孤山智円禅師の人柄を慕いその教えを検討してみたのであるが、そこで次のようなことが分かった。儒教がどの様な教えであるかというならば、孔子の説いた儒教の教えの中心は真心誠意と言えるし、老子の説いた道教の教えの中心は様々のわだかまりを持たない心であるということが言える。仏教の教えの中心は悟りを開くことである。
儒教では誠意と言い、道教では虚心といい、仏教では見性と言うけれども、この三つのものは名前は別々であるけれども、その本体は一つのものであって、その究極のところは何かと検討してみるとまさしくこの三つが一つの教えにまとまらないということはない。
―西嶋先生にある人が質問した―
質問
この間お彼岸でもあるもんですから「無量義経」を通読しました。釈尊が六年間菩提樹下で坐禅をしたということから始まりまして、四諦の教え、十二因縁、六波羅蜜を説いて最後に法座の上で大乗の教えを説き終わって「無量義」と名づくと言って、法座の上で坐禅をして三昧に入ったと言う結びでございますね。
そうするともう徹頭徹尾坐禅に徹しているということが「法華三部経」の最初の「無量義経」で書いてあるんです。それを「法華経」を主題に一所懸命仏教の運動をしている人が坐禅という事になぜ気がつかないかと私は実に不思議に思いました。「無量義」が一番大事だということは各宗派の方がおっしゃいますが、やっぱりまあ実行ということは大変なんでしょうか。
先生
その点では坐禅というものを知らないんではなしに、やってみた事はたいていの人があるわけですよ。そして30分も坐らせられると、もう5分ぐらいたつと「まだかなあ、まだかなあ」と思って時計を見だすわけですよ。それで「まだかなあ、まだかなあ」と思いながらも、他の人が静かにやっているから途中でやめるわけにはいかないということで、30分無理に無理を重ねて終わるわけですよね。そうすると「うわ-、こんな辛い事は二度とやるもんか」と言うのが大体の実感だと思います。
ですから坐禅というのは慣れてきますと、こんなに楽しいものはないわけですけれども、初めて無理にやらされたときには途轍もなく苦しいものです。それは何にも考えないでジ-ッと背骨を伸ばして坐っておるということが我々の普通の習慣にはないわけです。その普通の習慣にないことをやらされるわけですから、「このくらい苦しいものはない」と感じる人はたくさんいると思います。
そういう点で「坐禅とは苦しいもんだ」という印象が世間一般に流れていますから、「あんな苦しいものをやらなければ仏道修行が達成できないんであればとても御免こうむる」と。そうすると「もう少しやさしいところで何とか勘弁してもらえないか」という考え方が出てくるのが人情だと思います。
で、そういうことの積み重ねが今日の仏教界の現状ではなかろうかと思います。ですからたいていの人は坐禅はとても苦しくて、普段やれないもんだと思ってるわけですが実際にやってみると必ずしもそういうものではないわけです。けれども実際にやってみて、ある程度慣れて来て坐禅というものがわかってくるというところまでいかなかった世間一般の人が行っていないというのが実情だと思います。
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