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正法眼蔵 三十七品菩提分法 32

三十七種類の修行法(四念住、四正断、四神足、五根、五力、七等覚支、八正道)

※五力(1・信力 2・精進力 3・念力 4・定力 5・慧力)

五力の「4・定力」について道元禅師が注釈されます。
定力(体と心が均衡状態にあるところから生まれてくる力)というのは、子供がその母親の懐に抱かれて何の心配もなく落ち着いた状態にあり、また母親が自分の子供を抱きかかえて満足しきった状態にあり、両者が調和のとれた関係に入ることである。

それは単に母親と子供との関係だけではなしに、子供が子供として独自の存在を示していることでもある。あるいは母親が子供との相対的な関係ではなしに、母親独自の状態としてきわめて安定した状態にいることでもある。その様な安定した状態を「定力」という言葉で表しているのである。

しかしながら、頭を顔に置き換えるような一つのものを排除して他のものを置き換えると言う関係ではなく、金で金を買うと言う様な意味のない無駄なことをするという関係でもない。ではどういう事かを結論的に考えていくならば、人生に関連してそれぞれの主張をうたいあげ独立独歩の形で何ものにも拘束されない高い境地を意味するのである。



           ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
道元禅師は鎌倉時代の人としてはともかく偉大な天才であると言う事ですが、「道元禅師が一代でこれだけやれるわけがない。おそらく過去において何代も人間に生まれ変わって、初めてあのようになったんだ。前世はたぶん中国人である」と言う人がいるんですが、先生はどうお考えになりますか。

先生 
いや、そんなのはでたらめだね。(笑)人間が生まれ変われるんだったら何の苦労も無いですよ。我々、一回きりだと思うから一所懸命やるんで二回、三回あるんだとすればそう真面目にやらないね。「今回は大いに遊んでこの次は勉強しましょう」と言う事になる。だけれどもそんな事はない。人生一回きりだから、まあ一所懸命やらなくてはならないと言う事だと思いますよ。 

質問
輪廻転生について教えて下さい。

先生
古代インドにおいて仏教が生まれる以前にバラモンの説くところの輪廻転生が非常に盛んだった。その輪廻転生からどう逃れるかというのが、バラモンの教えの中心的な問題であった。輪廻転生は信じるに足りないと釈尊は主張された。仏教思想の考え方の中には輪廻転生の教えはありません。

仏教が広まり伝えられていくうちに、それ以前にあったバラモンの教えが仏教の教えの中に混同されて、輪廻転生の間違った考えが入りこんでしまった。仏教を理解する場合に、すぐ輪廻転生と言うようなことが出て来る場合がありますが、仏教は輪廻転生をむしろ否定した教えです。


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正法眼蔵 三十七品菩提分法 31

三十七種類の修行法(四念住、四正断、四神足、五根、五力、七等覚支、八正道)

※五力(1・信力 2・精進力 3・念力 4・定力 5・慧力)

五力の「3・念力」について道元禅師が注釈されます。
念力(気持ちが集中している時の力)というのは、抽象的に言葉を使って問題を頭の中で考えている状態ではなしに、石鞏慧蔵禅師と西堂智蔵禅師とが虚空の問題に関連してやり取りをされた際に、石鞏慧蔵禅師が相手の鼻の孔を引っ張ってそれによって虚空を具体的に現実的に説明しようとされた態度を言うのであり、それに対して「ずいぶん乱暴ですね」と言う言葉で応じた西堂智蔵禅師の態度を言うのである。

したがって、具体的な鼻の孔が眼の前にあると、その具体的な鼻が現実の虚空を説明するために人に引っ張られざるを得ないという具体的な思考を指すのである。別の言葉でいうならば、あるときは価値の高いものを放り出してまたそれを拾い、あるときは価値のないものを放り出してまたそれを拾うという風な日常生活におけるごくあたり前な動作を言うのである。

その様にごく当たり前の日常生活の動作が「念力」という言葉で表されている内容であるから、具体的な行いをしないで、行動しようか行動しまいかとまごまごしている状態の場合にはたちまち師匠から三十回も棒で叩かれるのである。この様な「念力」という言葉が示す内容は、我々の日常生活の動作を意味するのであって、天下の全ての人々が毎日毎日使ったとしても磨滅してなくなる様なものではない。



           ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
たとえばアメリカの人たちは、キリスト教のためかもしれませんが、自分より周りの人のために尽くすという事に重きを置いてやっておりますが・・・・という前の人の質問に関連して、東大の中根千江先生は人間関係について、日本人は昔から縦社会でキリスト教の諸国では横社会だと言われています。

先生
縦社会とか横社会とかという考え方からいきますと、縦社会と言ってみても日本国民が狭い島の中でたくさんの人口が一緒に生きておったから、お互いに仲良くしないと社会生活が成り立たなかったわけです。そうすると、そういう社会を破壊して、独立独歩で頑張ろうとすると否応なしに太平洋を泳いで渡らなければならなかったと、こういう事です。

そういう環境に置かれておると、自然に縦社会の原則が出来たという事で日本の国土から生まれた特殊な事情ですよ。宗教の立場というのは、国境の中だけで論議をしていたのでは宗教は始まらないという事、これはあると思います。一国の国内だけで通用する様な教えというのは宗教的な意味を持ち得ないのです。だから宗教というものは常に国際的なものです。

何処の国へ持って行っても通用する様な教えが宗教と呼ばれるものであって、どんな時代でも通用する教えが初めて宗教と呼ばれる価値を持つんです。だからそういう点では、宗教というものは国際的なものであると同時に、永遠のものだと言えると思います。

だからあの国にはこういう事情がある、この国にはこういう事情があるという「現段階でこの地域では」という、特殊事情はいくらでもありますけれども、そういうものを乗り越えるところに宗教の意味があると、そういう事が言えると思います。


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正法眼蔵 三十七品菩提分法 30

三十七種類の修行法(四念住、四正断、四神足、五根、五力、七等覚支、八正道)

※五力(1・信力 2・精進力 3・念力 4・定力 5・慧力)


五力の「2・精進力」について道元禅師が注釈されます。
精進力(努力を基礎にして得られる力)と言う意味は、行いの中で実際に行動する事と、それを説明する事とは全く別の世界であるという考え方を基礎にし、何が言え何が実行できるかという事をしっかりとつかんで、実行できることを実行し、言葉で表現できることを言葉で表現するという状態を言うのである。

何らかのわずかなことでも言葉で説明することが出来るという事は非常に大きな意味がある。ほんの一つの言葉を実行に移すという事よりも優れた事態というものはない。別の言葉でいうならば、言うべきことを言い、行うべきことを行う事が仏道修行の全てである。

努力をしている状態というものが力を得ている状態である。つまり力を得るとはどういう事かというと、努力をしているという事態そのものである。努力は中間の過程で、その結果力を得るという考えではない。

仏道の立場から見ると一所懸命やっている事自体が力という主張である。そのように一所懸命何かをやっている状態が力そのものであって、その状態を精進力というのである。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
たとえばアメリカの人たちはキリスト教のためかもしれませんが、自分より周りの人のために尽くすという事に重きを置いてやっております。ところが日本人(私)の場合は、人のことはあまり考えないで自分を磨いていこうというのが先になるんです。「自未得度先度他」という教えが仏教にもあるんだから、できあがらなくても人を救う事が大事なんですか。

先生
その点ではね、キリスト教の考え方と仏教の考え方は明らかに違います。キリスト教の場合には自分と他人というものを置きまして「自分を犠牲にしても他人のため」という考え方です。仏教はどういう目標を置いたかと言うと、自分と他人のけじめがなくなるという事です。自分も他人も同じもんだから、大きな宇宙の中の泡のようなもんだという事に気が付くという事です。

そうすると、自分を犠牲にして「人のため、人のため」という努力も必要ないし、そうかといって人の利益を損なってでも「自分のため、自分のため」というのも本当の生き方ではない。人も自分も同じドンブリの中の粟粒の様なものだから、どっちが先に行っても、どっちが後になっても大した違いはないというのが仏教の立場です。

質問
そうすると、「身心一如」という立場もありますね。

先生
そうです。だから、「身心一如」とか「自他不二」とかという考え方になります。それでね「人様のため、人様のため」という考え方がわりあい危険なものをもっているんですよね、裏から見れば、「人様のため、人様のため」という事で個人がやっていけるかというと中々そうはいかない。

だからそういう点では仏教のような考え方で「自分も他人もあんまり違いがないんだ、どっちが良くてもそう大して大きな問題じゃない」という捉え方の方が、実体としては現実にかなっているいう事が言えると思います。、それが仏教の主張だし、仏教の主張が非常に温かい主張だという事はそのことなんです。

「自分を滅却して人のために尽くせ」という事も言わないし、「人の利益を犠牲にして自分の利益を図れ」という事も言わないし、この世の中の成り立ちというのは、人様も自分もそう大した違いはない同じようなもんだ。人様がよくなっても自分がよくなってもそう大きな違いはない。

だから人様がよくなるときは人様がよくなるように、自分がよくなるときには申し訳ないけど自分がよくなるようにという事で一向におかしくない。誰がよくなる、誰が悪くなると言ってみてもそんな実態があるのかどうかさえ分からない。現実そのものが眼の前にあるだけなんだと、そういう事です。

質問
ああ、そうですねえ、ありがとうございました。


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正法眼蔵 三十七品菩提分法 29

三十七種類の修行法(四念住、四正断、四神足、五根、五力、七等覚支、八正道)の中の五力という修行法に入ります。

五力
1・信力(信仰を基礎にした力)
2・精進力(努力を基礎にした力)
3・念力(気持ちが集中している時の力)
4・定力(体と心が均衡状態にあるところから生まれてくる力)
5・慧力(体が均衡し心が均衡している時に生れてくるところの直観的な判断力による力)

五力の1「信力」について道元禅師が注釈されます。
信力(信仰を基礎にした力)というは、自分自身が仏道の信仰に夢中になってしまって仏道の信仰から逃げようという態度がなくなった状態をいうのである。その様に夢中になって仏道修行をしている状態というものは、別の言葉でいうならば人から呼ばれたならば、そちらの方に必ず頭を向けて「はい」と返事をするようなごく普通の態度である。

さらに別の言葉でいうならば、自分が生まれてから年を取るまでの間、自分自身を振り返ってみるならば別の人間がいるわけではない。

さらに別の言葉でいうならば、七回転び、八回転ぶという事が我々の日常生活であるけれども、七回失敗しても決して苦にしない、それをそのままに捨て置いてさらに生きていくという状態でもあるし、八回転んだとしても、またあきらめずに仏道を頼りに起き上がるという状態でもある。

この様に信仰を基礎にした力というものは様々に表現できるけれども、それを結論的に言うならば、仏道を信ずるという状態が水晶の玉の様に透き通っていて少しの曇りもないという状態を意味するのである。

さらに別の言葉でいうならば、釈尊の説かれた教えを伝承する、あるいは釈尊以来代々の祖師方によって伝承されてきたところのお袈裟を伝承するという仏道修行そのものが「信仰」と呼ばれるものの実体であり、真実を得た人の実体というものを伝承する、あるいは仏道修行における祖師方と同じ状態を伝承するという事が「信力」と呼ばれる修行法の内容である。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
信力について、一番初めに「自分自身に夢中になって逃げて行き場がない」と言われましたが、自分に当てはめて考えて、私は心理学を勉強している者ですが、「正法眼蔵」で先生に教えていただいたことが私の日常の中ではみんな仏道の方に集中していくんです。

さらに「人から呼ばれた場合、素直にそっちの方へ頭を向ける」という、ごく普通の日常的な動作の事であると言われましたけれども、これは結局、私の場合、学問的なものと密接に結び付けていく・・・

先生
ここでまず最初に、自分自身で望もうと望むまいと仏道を信じずにはいられないという状態をまず言っておる訳です。どうにも否定しようがない、仏道を信じ、坐禅を信じる以外にどうも手がないという事を言っておられるわけです。

そうすると、非常に主観的に凝り固まっていて人のいう事も聞かないような態度かというとそうではなくて、人から呼ばれればすぐ素直にそっちの方に顔を向ける様なきわめて柔軟な態度であるという事を表現されたいために、「自分自身で望もうと望むまいと仏道を信じずにはいられない」と言われているわけです。

だから仏道の態度というのは必ず二つの要素を含んでいるという事が言えると思います。もう仏道の信仰に凝り固まって、それ以外に教えというものは全くないという風な純粋な態度と同時に、人から呼ばれたらすぐそっちに顔を振り向けるような柔軟な態度でもあるという事がここに説かれている。

質問
昨日、紀野一義さんという方の仏教の論評を読みましたが、「禅者は坐禅をすることばかり主張していて、非常に豪快であるけれども頑固さが感じられる」と言っていますが、私はそうは感じないんですけどね。

先生
うん、私もそうは感じない。

質問
どうしてそういう風にとるのかなあ、と。あの人の書き出しが、「私は禅者ではない」と書いてありましたから「ああ、それは頭で考えたことだな」という事で理解できましたけど。

先生
そう。だからね、坐禅をしているとそうかたくなな人間にはなりませんよ。坐禅の中から生まれてくるのは、非常に柔軟な心であり体であるという事が言えると思います。だから道元禅師が中国から帰られたときに、「中国から何を持ってこられたか」という質問に対して「柔軟心を持ってきた」と言われたのは、まさに坐禅からは否応なしに柔らかな体、柔らかな心が生まれてくるという事でしかないと思います。


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正法眼蔵 三十七品菩提分法 28 

※五根(1・信根 2・精進根 3・念根 4・定根 5・慧根) 

五根の5・「慧根」について道元禅師が注釈されます。
仏教における知恵とは単に理性の働きや心の働きだけではなしに、自律神経が均衡している時に直観的に得られるものを智慧と呼ぶ。慧根(智慧が原因になって真実に到達する)とは何かというならば、抽象的な論議に頭を悩ませることではなく※栄西禅師の様に<眼を見開いて自分の周囲を見つめることである。

切実に行動しなければならない現実に常におかれている我々は様々の問題について、理由というものを洗いざらい聞いていてもあまり問題の解決にはならない。たとえば「そもそも人生とは何か」等という呑気なことは言っていられない。きわめて現実的な事実をはっきりと睨むことが仏道修行である。

驢馬は驢馬らしく現に動き回っている。井戸は井戸として現に眼の前にある。真実に到達するための原因も具体的に現実に目の前にあるだけのものであって、それについて理由づけしたり分析したりする必要はない。

※栄西禅師の様に
道元禅師は比叡山で修業をしていたが、天台哲学では仏道の究極が理解できなかった。そこである人の勧めで京都の建仁寺に栄西禅師を訪ねた。その時に道元禅師がかねてから疑問に思っている天台哲学の問題を栄西禅師に尋ねられたと言われている。

道元禅師問う。
天台哲学では本来本法性、天然自性身―我々は誰でもこの宇宙と一体になったすぐれた素質を持っている、肉体的な問題についても、ありのままの肉体が素晴らしい性質を具えている―と主張するが、その様であるならばなぜ人間が仏道修行をしなければならないのか。

栄西禅師言う。
仏道では過去・現在・未来にわたって真実を得た仏がたくさんいると言われているけれども、自分は果たしてそういう方々がいるのかどうかよく知らない。猫とか牛とかがそこら辺をうろうろしているのは自分にはよくわかる。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
道元禅師は「様々の問題について洗いざらい質問しても問題の解決にはならない」と言いながら、天台哲学の「本来本法性、天然自性身」については「ああ、そうなんですか」と言わないんですか。その辺は・・・。

先生
これはね、仏道修行の順序なんです。それで道元禅師が比叡山におられた時にいろんな哲学問題について疑問を尋ねられたと言う状態があったればこそ、建仁寺に行って坐禅をしようという気持ちになったわけです。だから初めから理屈抜きで、もうそんなものはどうでもいいという事ではなしに、これも知りたい、あれも知りたいという事で夢中になって勉強しているうちに、理屈だけでは解決がつかないという事がわかってくるわけです。

そこで、修行に入って行くわけです。だから修行に入る以前には理屈の段階がどうしてもあるわけです。そのことが順序として言えるわけです。道元禅師のお立場はすでにもうその全段階の理屈を乗り越えた段階ですから、ここでは実行とか実践とかという事が非常に強く出てくるという関係にあるわけです。

だから疑問があったら大いに疑問を持って、一所懸命に勉強するという事はいっこうに差し支えない。只そういう理屈で一所懸命勉強しているうちに、「こんな事をやっていてもしょうがないな」という事に気が付く。理屈を考えに考えているとますます可笑しくなって、ますます理屈がわからなくなって来るという事情が我々の人生問題にはあるわけです。

その事情がわかってくると、「これはもう理屈じゃしょうがないから、足を組み、手を組み、背骨を伸ばしてジ-ッと坐ってましょう」という事になってくる。そういう仏道修行の段階というものがあるとみていいです。


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ご訪問ありがとうございます。 「正法眼蔵」は仏道を勉強する上において「なぜ坐禅をやらなければならないか」という事を事細かに疑問の余地のない形で詳細を述べておられる。だから「正法眼蔵」を読んで仏道の理論的な側面を勉強しながら自分自身で坐禅をやるならば、仏道修行においては欠けているところはない。―愚道和夫老師―

プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
70代女性。自営業。自宅で毎日朝晩坐禅をしています。愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」をブログで紹介しています。老師より平成13年「授戒」平成20年「嗣書」    

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